くらしお古今東西
山梨県
山梨県と塩
内陸の山梨県には塩づくりに関する記録はほとんどありません。
江戸時代には、瀬戸内などの塩が、清水港(静岡県清水市)に荷揚げされ、そこから蒲原(静岡市)までは海上輸送、蒲原から岩淵(現富士市)へは馬、岩淵から川船で富士川を遡って鰍沢(現富士川町)、青柳(現南巨摩郡)、黒沢(現西八代郡)の三河岸で陸揚げされ、さらにそこから人馬で甲府まで運ばれました。そして三河岸や甲府には、多くの塩問屋がありました。
塩のsenjutsu
第3回 塩の流通・商人とsenjutsu(戦術)
第2回の塩の生産の話を受けて、第3回では戦国大名領下の塩の流通と商人の実像、そして戦国大名の関わりを、史料をもとに見ていくことにしましょう。
天文5年(1536)8月、相模国当麻(神奈川県相模原市)で関山弥五郎は、北条氏より1月に塩荷2駄分を家内使い用として通すよう命じられています(『戦北』1-127)。当麻に関があったことは、天文24年(1555)6月に宇都宮の商人庭林(ていりん)清六郎が春と冬に3回ずつの年6回にわたり蝋燭荷を運ぶ馬の当麻役所(=関)の通行を北条氏に許可されている(『同』1-488)ことからもわかります。関山氏は六斎市に来る商人や時宗の無量光寺に参詣する道者を泊める問屋も営んでいました(『同』4-2964など)。
大永3年(1523)11月、駿河国由比(旧清水市、現静岡市)の領主由比光規は子の寅寿丸(光澄)に所領を譲りますが、その中には由比郷で「塩関参ヶ所」などの記載があり(『静』3-819)、塩の流通を管理する関を所持していたことが分かります。同4年(1524)9月、興津(旧清水市、現静岡市)の領主興津正信は、父久信から相続した所領などを今川氏親に安堵されますが、その中に興津郷、薩埵山関と並んで「甲州塩関」がみえ(『同』3-849)、甲斐国(山梨県)向けに塩が運ばれていたことが分かります。薩埵山は急斜面の山地が海に迫る地形で、東海道の難所として知られており、薩埵峠は中世に幾度となく戦場となった軍事・交通の要衝でした。その薩埵山を挟んで東の由比と西の興津に「塩関」があることから、この一帯が塩の流通路にあたり、領主層が関を置いて通行税をとるなどしていたことがわかります。ただし、天文3年(1534)の今川氏輝から興津正信への安堵状には薩埵山警固関を残すだけとなっており(『同』3-1287)、塩関は見られなくなります。大永6年(1526)4月制定の今川仮名目録24条では、駿河・遠江での津料(港での課税)、遠江での駄の口(関での商品への課税)の停止が規定されており、その影響で駿河でも塩関が停止された可能性があります。由比光規は天文20年(1551)8月、今川義元から借米銭の一部を免除される処置を受けていますが(『同』3-2070)、塩関の停止による収益の減少が経済的困窮の一因になった可能性も考えられます。
このように、史料上は「塩荷」、それらが通過する「塩関」という文言から、塩の流通の一端を垣間見ることができます。そこで今度は、先の「甲州塩関」という文言に注目し、海をもたない内陸国である甲斐国での塩の流通に目を向けてみましょう。
武田氏が甲斐・信濃の分国中での諸商売に係る諸役免許状の目録の中に、裏の台所へ納めたと思われる塩を1月に2駄免許した史料があります(『戦武』1-655)。残念ながら商人の名も、それを取り次いだ奏者の名も書かれていません。ちなみにこの史料からは、京都・美濃・会津・駿河など多くの遠隔地から商人が来訪して商売していたことが分かり、たいへん興味深いものです。
天正元年(1573)12月、武田氏は山下外記に河東(山梨県昭和町)の塩之座についての定書を与えます(『同』3-2244)。そこでは1駄あたり100文ずつの負担が課されていたようです。武田氏の滅亡後に甲斐を治めた徳川家康は、天正11(1583)年9月、山下又助に河東の塩之座の代わりとして所領を与えています(『徳川』上-537頁)。江戸時代に編纂された『寛政重修諸家譜』によれば、外記(讃岐守)勝久と又助勝忠は父子で、河東の塩之座に関する文書を所持していたことも記されています(『同』第二十一、347頁)。河東は富士川上流部の釜無川に面しており、先の塩之座の定書には船の記載も見えることから、塩は駿河方面から富士川を船で運ばれ、河東で荷下ろしされて陸路を甲斐府中(甲府)に運ばれたものと思われます。
天正10年(1582)8月、武田旧臣の初鹿野昌久は徳川家康より本領を安堵されていますが、その中で「黒駒筋塩之役」については替地を与えられています(『同』上-358頁)。黒駒筋とは甲斐から御坂峠を越えて吉田(富士吉田)から御殿場に抜ける、甲斐と駿河を結ぶ道のことと思われます。先の富士川と同様に、黒駒筋も駿河から甲斐に塩を運ぶ重要なルートの一つで、初鹿野氏は塩役を取ることで流通を統制していたとみられます。元亀3年(1572)に吉田の町を新しい場所に移した際に作成されたと伝える宿屋敷割帳(『戦武』3-1784)には「塩屋」の記載があり、駿河から黒駒筋を通って甲斐に運ばれる塩を取り扱う商人がいたのかもしれません。
なお、武田氏が塩役の徴収を重視していたことは、天正9年(1581)8月に和田城(後の高崎城)主の和田信業に六斎市の興行を命じた際に、諸役免除の例外規定の一つに「塩之役」をあげていたことからもわかります(『同』5-3603)。塩役の賦課は経済的収益ばかりでなく、流通する塩の統制にもつながったことでしょう。
このように、武田氏は家臣を通じて塩の流通統制と確保につとめていました。断片的ではあるものの、武田氏関係の史料には塩の流通や統制に関するものがそれなりに残っている印象があります。今川氏を滅ぼして駿河を手中にするまでは海をもたなかった武田氏だからこそ、塩に対する関心も高かったのではないかと思われます。
先に見たように、武田領国には全国各地から商人たちが集まっていましたが、その中には弘治4年(永禄元年、1558)に1月あたり荷物5駄の諸役を免許された、会津高橋郷(未詳)の大島次郎右衛門尉なる商人がいました(『同』1-655)。それでは次に会津に目を転じてみましょう。
会津で塩を取り扱う商人に、商人司(商人親方)として知られる簗田氏がいました。天正5年(1577)10月、蘆名盛氏は簗田藤左衛門に3か条の条目を与えますが、その中で塩荷10駄あたり3盃を取ることが規定されています(『福』2-790頁)。会津にも京都・伊勢・関東など遠隔地から商人が集まっていました(『同』2-790頁)。文禄4年(1595)2月に会津若松城主蒲生氏郷が亡くなると、子秀朝(秀行)が幼少だったため、7月に秀行の会津下向に浅野長吉(長政)が同行し、長吉は蒲生氏家臣3名に宛てて町方に関する13か条に及ぶ掟書を出します(『会』2-57頁)。その1条目で、若松城下での塩役、塩宿などの役賦課や諸座を禁じています(『会』8-342頁)。塩宿とは塩を取り扱う商人が宿泊する施設のことでしょうから、先の史料との関連からみても、簗田氏が塩宿を経営して塩を売りに来る商人たちを集め、塩座を開いて塩役を徴収し、塩の販売を一手に握っていたものとみられます。
それでは最後に、地域社会の中で塩をめぐる領主と商人・百姓の関係が見られる興味深い事例として、下総国野尻(銚子市)の商人宮内氏を見てみましょう。野尻は、中世には内海(香取内海)と呼ばれ、研究者が常陸川と呼ぶ、現在の利根川下流部に面した町場でした。この地域を支配していたのは海上千葉氏で、その根拠地である中島城(銚子市)は野尻と近い場所にありました。当主胤富は下総千葉氏を継ぎますが、永禄2年(1559)胤富は宮内清右衛門尉に分国中の町役などを免除しています(『千葉』5-620頁-2)。ところが、永禄3年頃に里見氏重臣の正木氏がこの地域に進出し、清右衛門尉に房州・上総・下総3か国のうち里見氏の領内での商売を認めます(『同』5-620頁-3)。さらに、九十九里浜北部の須賀筋(須賀は旧海上町付近、現旭市)から下る塩荷について、1月のうち半分の15日は野尻宿と舟木宿に下すので(ここは両方の宿で半月ずつ担当せよという意味に解しました)、後日城で受け取るから城下の根小屋に運ぶよう、野尻宿商人中に命じています(『同』5-620頁-4)。野尻と舟木は隣接していて、いずれも船で香取内海へと通じていました。香取内海では、天正6年(1578)に豊島貞継が布川(茨城県利根町)の津において、古河の商人福田民部少輔に穀船1艘・塩船2艘の通行を許可しており(『同』4-305頁)、船で塩が運ばれていた様子を知ることができます。
永禄8年(1565)7月、本佐倉城(千葉県佐倉市・酒々井町)に拠っていた千葉胤富が森山城(千葉県香取市)城将の原大炊助(親幹)・石毛大和入道に宛てた文書には、塩荷や塩役に関する記述が出てきます(『千史』補-2頁)。胤富は正木氏との戦乱の最中に塩荷への5文の役銭を塩竃に賦課して毎月納めさせていましたが、須賀中の地下人たちが撤回を求めて侘言を申し出てきました。胤富はそのことは承知したものの、塩荷が他所へ流出するのを一人では取り締まれないので、原と石毛の手代にも取り締まるよう命じています。そしてこのことは、塩船の出入りに対して課す役のためでもあるので、異儀に及ぶ者があれば身柄を捕えて報告するよう伝えています。
ここから、九十九里浜北部の須賀周辺が塩の生産地であったこと、そこから運ばれる塩荷は千葉氏が管理していたがその横流しが横行し、家臣たちの監視のもとで厳しい流通統制を図るよう求められたこと、そして塩荷に対する課税対象が戦時の塩竃から平時の塩船に変わっていったことがわかります。先に宮内氏が権利を認められた須賀筋から野尻・舟木宿を経て香取内海へと搬出される塩の流通ルートと重ね合わせると、塩の生産地である九十九里浜から香取内海への移送手段として、江戸時代の干拓以前に存在した椿海(現旭市)などを船で利用した可能性も考えられます。永禄13(1570)年6月、宮内清右衛門尉は、古河公方足利義氏の宿老で関宿(千葉県野田市)城主であった簗田持助から、小南(千葉県東庄町)から乗船する船1艘についての権利を認められています(『千葉』5-620頁)。宮内氏は九十九里浜北岸から香取内海を経て関宿方面につながる広域的な塩の流通に関わっていたと思われます。
そして元亀3年(1572)閏正月、宮内清右衛門尉は千葉胤富から、九十九里浜の三川(さんがわ、旧飯岡町、現旭市)で田地を下されたほか、塩竃についても上納銭を申し出たことを受けて宮内に委ねることを認められ、さらに千葉氏の御船(公用船)の造営を申し出たことで、その分の上納銭を割り引く処置をとってもらいました(『千葉』5-621頁)。宮内氏は塩の取引のみならず、塩生産の経営にまで乗り出していったのです。
以上、管見の史料から塩の流通と商人の実像、そして戦国大名の関わりについて見てきました。実際の塩の流通(ときに生産まで)を担うのは中小商人たちであり、戦国大名は流通に関わる領主・家臣や商人司、問屋などを介し、塩船や塩荷馬の通行許可、塩役の徴収などを通じて間接的に統制をはかり、塩の確保につとめていたと思われます。
そこで次回は、塩の流通を文字通りsenjutsu(戦術)の一環として利用した「塩留」の問題を取り上げることにします。
阿部浩一(福島大学行政政策学類教授)
【参考文献】
『会津若松史2 築かれた會津』会津若松市、1965年、豊田武著作集2『中世日本の商業』吉川弘文館、1982年、阿部浩一『戦国期の徳政と地域社会』吉川弘文館、2001年、戦国人名辞典編集委員会編『戦国人名辞典』吉川弘文館、2006年、鈴木哲雄「海上千葉氏の領国支配-網代・製塩・『郷中開』」『都留文科大学大学院紀要』27、2023年
注)略記した出典は以下の通りです。数字は巻-史料番号ないし掲載ページです。参考になさってください。
『戦北』=『戦国遺文後北条氏編』1~6、『静』=『静岡県史』資料編中世3・4、『戦武』=『戦国遺文武田氏編』1~6、『徳川』=中村孝也『新訂徳川家康文書の研究』上、『福』=『福島県史』7 資料編2 古代・中世資料、『会』=『会津若松史』8 史料編Ⅰ、『千葉』=『千葉県の歴史』資料編中世1~5、『千史』=『千葉県史料』中世編 諸家文書 補遺
これまでの連載はこちら
第1回 戦国大名のsenjutsu(戦術)と塩の関わり(滋賀県のページ)
第2回 塩の生産と確保のsenjutsu(戦術)(静岡県のページ)
続きはこちら
第4回 senjutsu(戦術)としての塩留(埼玉県のページ)
第5回 塩の効能とsenjutsu(戦術)(神奈川県のページ)
最終回 戦国を生き抜いた武将たちと塩づくりのsenjutsu(戦術)(千葉県のページ)
(塩と暮らしを結ぶ運動推進協議会事務局より)
今回の記事については、対象が現在の山梨県のほか、神奈川県、静岡県、群馬県、福島県、千葉県にまたがりますが、主な記述対象である山梨県のページに掲載しています。
塩を手に入れるための工夫
価格や流通の管理
地理的条件から塩への関心は高かったようで、江戸時代には、町年寄役所が塩の小売価格を統制する、あるいは駿河方面からの塩を、代官を経て塩商人に払い下げるといったことも行われました。また、明治初期には、県が塩の流入、販売を管理する一種の「専売制度」が採られたこともあります。
参考文献:『日本塩業史』