くらしお古今東西

新潟県と塩

比較的広く長い砂浜が連なっている所が多い越後の海岸では、揚浜式の塩づくりが多くの場所で行われていたようですが、江戸時代に瀬戸内海の塩がもたらされるようになると、次第に衰えていきました。それでも、明治末まで寺泊(現長岡市)、糸魚川、佐渡島の河崎等で揚浜式塩田による塩づくりが行われていました。

また戦時中に村上市の瀬波温泉で温泉熱を利用する塩づくりが始められ、昭和30年代まで行われました。

塩にまつわる習俗

雪合戦の反則行為

江戸時代、越後国の雪深い様子を叙述した『北越雪譜(ほくえつせっぷ)』という書物がある。雪国の様子について、多くの自然、風俗、生活、伝説などを紹介している。作者、鈴木牧之(ぼくし)は、越後国魚沼郡塩沢村(現新潟県南魚沼市)の縮仲買商の家に生まれた。塩沢宿は三国街道の宿場町として栄えた。三国街道は上杉謙信が関東管領として後北条氏を攻略するために整備した道とされる。

塩沢宿の次の次の宿場町が湯沢宿である。川端康成の名作『雪国』の舞台である。冬、私たちが東京から上越新幹線に乗り、上毛高原駅を過ぎると、しばらく長いトンネルが続く。そして、やっと過ぎたら一面は銀世界であり、越後湯沢駅に到着する。「トンネルを抜けると雪国であった」という『雪国』の冒頭の一節を今でも経験することができるだろう。関東平野を越えると、別世界の雪国が広がるなか、雪国で生活し、一生を終えた鈴木牧之の思いを込めた名著である。

その中の一つに雪の中での子供たちの遊びについて紹介してある。

玉栗というゲームである。冒頭で雪合戦と書いたが、雪玉を相手に投げるゲームではない。玉栗(雪玉)同士をぶつけ合い強弱を競い合うゲームである。雪を卵の大きさに丸く握り固めたものを、雪で何度もかぶせつつ踏み固め、さらには柱などにぶつけて圧し固めるようにする。これを「肥(こやす)」という。これが手毬ぐらいまで大きくなった雪玉のことを玉栗といった。そして、ひさしの下に置いてある他の子供たちが作った玉栗を、自身の玉栗とぶつけ合い、砕けるか否かで勝負を決めるものである。このことを、当時、コンボウ、コマ、地独楽(ぢごま)、雪玉(いきんたま)、ズズゴ、玉ゴショ、勝合(かちあい)などと言った。

この雪合戦には反則行為があった。それは雪に塩を入れるということである。何故ならば、雪に塩を少し含ませるだけで、石のように固くなるという。よって、玉栗を作る際には、塩を入れることを禁じている。

鈴木牧之は、「塩は物を堅むる物なり(塩は色々な物を堅くするものである)」と紹介し、日常的な事例を紹介している。たとえば、塩蔵(しおづけ)にすれば肉類は腐らないし、朝夕に口をゆすぐ際に、塩の湯水を利用すれば歯を固めて歯の寿命を長くすると述べている。

子供たちの遊びの中から、塩の効能を紹介し、生活の知恵を伝えている。

落合 功(青山学院大学経済学部教授)

参考文献:『北越雪譜』鈴木牧之

塩を手に入れるための工夫

海岸まで木を流す

現在の村上市の雷では、瀬戸内の塩が新潟に入ってくるようになる前には、冬の間に山で木を伐っておき、雪解けのころに海岸まで川を流し、海岸でこれを燃料にして塩をつくっていましたが、その後は、流した木で海岸の人たちに塩をつくってもらうようになりました。そして、江戸時代に瀬戸内の塩が入ってくるようになると、流した木を薪として売って、その代金で塩を買うようになったということです。

参考文献:『塩の道』宮本常一

塩と暮らしを結ぶ運動推進協議会会員

全国塩元売協会会員

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