くらしお古今東西
愛知県
愛知県と塩
中世には、三河湾の各所で入浜式と推定される塩田が築かれました。江戸期になると、吉良(現西尾市)周辺などに大規模な入浜式塩田が築造され、さかんに塩づくりが行わるようになりました。中でも吉良産の塩は、三河周辺だけでなく足助街道を通じて長野県の伊那谷方面にも運ばれ、「饗庭塩」として有名でした。
明治末には、知多半島や渥美半島の塩づくりは廃止されますが、三河湾岸の吉良周辺では塩づくりは続けられ、戦後には流下式塩田に転換しつつ、昭和40年代まで存続しました。
参考文献:『豊田市郷土資料館特別展 塩の歴史と民俗-三河の塩生産と交易-』豊田市郷土資料館、『吉良の塩田-幡豆郡の製塩業についての調査報告-』吉良町教育委員会、『吉良の歴史』吉良町
塩づくりの歴史
三河湾の土器製塩
弥生時代中期以降、瀬戸内海を中心に土器を利用した製塩が盛んにおこなわれるようになる。弥生時代の終わりから古墳時代の初頭には、瀬戸内海以外の各地で土器製塩が開始される。これらは、瀬戸内地方からの製塩技術の伝播と考えてよいだろうが、製塩土器の形は地域により変化し、特色があらわれる。
中でも、三河湾の製塩土器の形は特徴的で、土器の底部に支脚が付いている。時期によっても異なり、支脚の中が空洞のものから、粘土の棒を取り付けたような形状のものに変化する。支脚の基本的な目的は、土器を砂浜の上で安定させ、土器の底部に熱を受けやすくするためであろう。このような工夫は製塩をおこなう海岸の地形にも影響されるようで、三河湾の場合、砂浜での作業の効率性を考慮したと思われる。三河湾の製塩土器と類似する土器の形状は、古墳時代後期の山口県の瀬戸内沿岸などでも採用されている。
鹹水(かんすい。海水を濃縮した塩水)を火にかける際には、製塩土器を数十個並べることのできる炉が用いられた。製塩炉にも地域差があり、石敷きの炉が発達する地域では製塩土器の支脚は退化・省略されることがある。例えば、大阪湾沿岸の製塩土器は、丸底へと変化する。これと反対に、三河湾のように砂の上に製塩土器を配置し煮沸する場合には、支脚が発達したものと考えられる。
日本各地の土器製塩の広がりをみてみると、三河湾は比較的早く製塩が開始された地域である。古墳時代中期になると、渥美半島、知多半島のほか島嶼部でも製塩がおこなわれるようになる。こうした製塩活発化の動きは、製塩に適した地形・環境であるというだけでなく、政治的な地域間関係にも影響されたと考えられる。
製塩が早くから始まり、集中的におこなわれた三河湾沿岸(尾張国・三河国)は、奈良・平安時代には調塩・庸塩を納める地域であった。他地域と同様、製塩のさらなる効率化が求められ、製塩土器の大型化などの変化が起こったようである。ただ、8世紀以降は、各地で鉄釜や塩田が導入されはじめたように、新たな製塩技術が三河湾にももたらされた可能性がある。9世紀半ば以降、三河湾の土器製塩は衰退しはじめ、11世紀から戦国時代に至るまで、製塩の痕跡は確認されなくなる。ただ、製塩自体は重要な産業であり続けたと考えられる。土器製塩衰退以降の製塩技術の変化を知るには、塩田のほか、土釜・貝釜のような遺構の発見が期待される。
川島尚宗(島根大学法文学部山陰研究センター客員研究員)
参考文献:『土器製塩の研究』近藤義郎、『東海土器製塩研究』考古学フォーラム
塩にまつわる習俗
こぼした塩に謝る
塩は生活必需品で大切なものである。挙母町(現豊田市)では、誤って塩をこぼしたりしたとき、その場所に水をかけて「堪忍しておくれん」と言って謝ったという。それは、塩は最後は海に戻るという考えがあり、その地に塩をこぼしてしまえば、三年かかって元の海に戻るため、それではおとましい(もったいない)からだという。
落合 功(青山学院大学経済学部教授)
参考文献:『塩俗問答集 常民文化叢書<3>』渋沢敬三編
塩と歴史
「忠臣蔵」松の廊下刃傷事件 塩田説について
江戸城松の廊下にて、赤穂藩主浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央を斬りつけた刃傷事件の原因を、塩田にまつわる確執に求める説があります。吉良義央が入浜式塩田の先進地であった赤穂に、製塩法の指導を願い出たところ拒否されてしまいました。これに立腹した義央が、勅使饗応役を拝命していた浅野長矩に対し、儀式典礼を司る高家の立場を利用して故意に恥をかかせたとされます。浅野は吉良に対する恨みから、刃傷事件に至ったとする説です。
この説の初出は戦後とされ(『赤穂義士事典』赤穂義士事典刊行会 昭和47年)、NHK大河ドラマ『峠の群像』(堺屋太一原作)で取り上げられたことなどを通じて広く一般に認知されるようになったようです。
吉良義央が刃傷事件に遭遇した元禄14年以前に、既に開発されていた三河国幡豆郡の塩田は、本浜及び白浜のみです。このうち、本浜塩田が所在する吉田村は甘縄藩松平領、白浜塩田が所在する富好外新田村は幕府領で、いずれも吉良領ではありません。「忠臣蔵」塩田説では、吉良義央が元禄元年(1688)に妻富子の眼病治癒を期に干拓を行ったと伝えられる富好新田に塩田が築かれたと説きますが、元禄7年に富好新田の海側に接する白浜新田の開発が開始されるため、内陸側に位置する富好新田で大規模な塩田が営まれたとは考えにくい状況です。富好新田の享保16年(1739)の年貢割付状には、塩田に関連する税が徴収された記載は認められません。江戸時代の幡豆郡では、複雑に大名領・旗本領などが村ごとに混在しており、赤穂藩のように領主が大規模な塩田開発を奨励し、積極的に塩の販売を行ったとは考えにくいようです。また、塩の販路については、赤穂塩が廻船によって江戸の他、各地に流通したのに対し、吉良の塩は三河以外に知多の醸造業や信州伊那谷方面に流通した程度で、生産量は赤穂をはじめ瀬戸内産には遠く及びませんでした。
西尾市教育委員会学芸員 三田敦司
参考文献 『吉良の塩田-幡豆郡の製塩業についての調査報告-』吉良町教育委員会
塩の道
足助街道
江戸時代、三河の足助(現豊田市)は、三河から信州(現長野県)を結ぶ中継点であり、塩を扱う塩問屋も多くありました。三河の塩や瀬戸内の各地の塩が運び込まれましたが、俵の包装は各産地で区々なので、ここで一度俵から出して新しい俵に詰めなおすこと(「塩ふみ」「塩なおし」)が行われました。その理由としては、一俵あたりの内容量を統一する、馬の背で険しい山道を輸送するのに耐えられるように包装を整える、といたことがあったと考えられています。そしてこの塩が、信州の伊那地方では「足助塩」「足助直し」と呼ばれていました。
参考文献:『塩の道』宮本常一、『豊田市郷土資料館特別展 塩の歴史と民俗-三河の塩生産と交易-』