くらしお古今東西

長野県と塩

内陸の長野県には塩づくりに関する記録はほとんどありませんが、伊那郡大鹿村では明治末まで、塩泉から塩をつくっていたといいます。

長野県へは日本海側からもまた太平洋側からも塩が運ばれましたが、日本海側からの塩が「北塩」、太平洋側からの塩が「南塩」と呼ばれました。「北塩」のルートである新潟県の糸魚川から松本に至る「塩の道」千国街道が有名ですが、「北塩」、「南塩」とも、他にもさまざまな流入ルートがありました。

塩にまつわる習俗

塩市から飴市へ

長野県松本市では1月11日が「あめ(飴)市」とされている。福飴や福だるまの販売が見られる。実はこのあめ市は古くは塩市と言われていた。この塩市の発祥は義塩伝説にある。上杉謙信(越後国)が武田信玄(信濃国・甲斐国)に塩を送る有名な「敵に塩を送る」話である。市日の1月11日は、上杉謙信が送った塩が松本に届いたのが永禄12年(1569)1月11日だったということで、この日を市日に定めたのだという。

いわゆる「敵に塩を送る」話は、事実とは必ずしも言えないだろうが、松本付近の塩商人が北国地方の塩商人と密接な関係にあったことは事実だろう。江戸時代に入り、交通路が整備されるのに従い伊奈街道や甲州からも塩が送られるようになる中、越後の塩商人が商圏を守るためには義塩伝説は都合の良い話であったのである。現在、あめ市では上杉軍・武田軍に分かれて戦う「塩取合戦(綱引き)」が行われるとのことである。

塩取合戦(画像提供:公益財団法人塩事業センター)
(塩と暮らしを結ぶ運動推進協議会事務局より)「適に塩を送る」話については、本ページ下部の「塩と歴史」もご覧ください。

松本での正月11日の市初めは慶長20年(1615)にすでにあったとされ、塩や飴が売られていたという。この市初めの時に一日市場(ひといちば)のえびす社の社人が塩を売りに来ており、その後、宮村天神(現在の深志神社)の神主が「市神の塩」を売るようになる。

市神の拝殿では塩が売られる。白い紙で包んでお捻りにした祝塩を分ける風習がある。「御神塩 本町市神社」と印刷した「市神の塩」があり、この時には「お買いなすって、お買いなすって、オジュウゴンチのお粥の塩」と声を掛ける。そして、この塩を正月15日に食べるお粥に入れるとその年の厄をまぬがれると言われている。

明治時代の末頃になると、塩が入った俵の形をした飴を神様に供えたりするようになり、縁起物としてその飴が売られるようになって、塩市からあめ市へと変わったという。

他にも大町市のあめ市は2月11日、12日に開催されるが、五日町、八日町、九日町の三町で市神をまつり、盛塩(もりじお)や供え物をする。通りには「奉納 塩市神」という幟もたつ。

毎年1月2月に長野県下(特に中信地方)各地で開催される飴市(今はあめ市)は、もともとは塩市であった。信州地方において、凍てつく冬に人々は貴重な食料でもあり、厄払いとしても大切にされていた塩を受け取ることで、その年の平穏無事を祈念したのである。

落合 功(青山学院大学経済学部教授)

参考文献:『飴と飴売りの文化史』牛嶋英俊

夜間の運搬には火を添える

下伊那郡神原村(現天龍村)では隣の新野村から塩を運ぶのに六貫俵二俵を背負ったといわれている。夜になると、山犬に襲われる怖れがあったため、必ず山犬除けに火縄銃をもって歩いたという。この火縄銃のことを、地元ではカコといわれる。

また、実際に山犬に襲われそうになったとき、背負枠(しょいた)の緒の端にあるミゾ(縄で輪の形に結んだ部分)を切って与えたりすると助かったといわれている。隣村である平岡村(現天龍村)では、草鞋の紐を長くしておき、危険を感じた時にはそれを切って与えたという。

落合 功

参考文献:『塩俗問答集 常民文化叢書<3>』渋沢敬三編

塩と歴史

敵に塩を送る?

「敵に塩を送る」知る人ぞ知る故事である。甲斐国(山梨県)の戦国大名、武田信玄が勢力を拡大するにつれ、それを恐れた駿河国(静岡県)の今川氏真は舅(しゅうと)に当る関東の支配者北条氏康と断塩同盟を結び、塩の輸送を停止した。さらにこの政策を徹底するために、越後国(新潟県)の上杉謙信にも使いを出し協力を呼びかけたのである。しかし、謙信はこれに同調せず、むしろ越後の塩商人に対して、信濃国(長野県)・甲斐国へ塩を送ることを奨励する。同時に謙信は、塩の価格を高くするような暴利を行なわないように命じた。上杉謙信にとって武田信玄は何度も矛を交えた好敵手である。それにもかかわらず、民を困らせるような塩留め政策には同調せず、かえって塩を送ろうとしたという話である。この話は美談として知られ、多くの書物にも書かれている。また、争っている相手であったとしても、争いの内容と異なることについては支援するたとえとしても使われる。

ところが、この「敵に塩を送る話」は、当時の史料には残されていない。実は、この話が広く紹介されるようになるのは、江戸時代の中ごろのことである。こうしたことから上杉謙信の「敵に塩を送る」という話は事実かどうかわからない。そもそも、塩留政策も行われたかどうか定かでない。

こうして考えると、「敵に塩を送る」話は本当か?ということも大切だが、何故江戸時代の中ごろからこの話が取り上げられるようになったのだろうか、という疑問に応える方が重要である。その点について述べておこう。

江戸時代の中ごろ、信濃大町では南塩を取締る触れが出されている。南塩とは伊那街道と甲州から送られる塩のことを指す。信濃大町は信濃国の中でも北寄りで糸魚川街道の中継点として栄え、塩蔵が設置されていた。こういう場所に、「これまで通り南塩を商売することを禁止する」という触れが出されている。こうした触れが出されるということは、①これまでは越後から塩が送られていたということ、そして、②この時期、南塩が多く信濃大町に入ってきたということである。つまり、この時期、越後の塩商人の商圏だった信濃大町が、南塩などによって浸食されていたということである。

「敵に塩を送る話」が広く話されるようになったのはちょうどこの時期であった。こうして考えると、越後国の塩商人たちが自分たちの商圏を守るために、この「敵に塩を送る話」を作り出したとも考えられるのである。

落合 功

参考文献:「『敵に塩を送る』という話」(『入門 事例で見る江戸時代』落合 功)

塩にまつわる人物

黒部銑次郎

旧阿波徳島藩士。幕末に江戸で福沢諭吉の塾(後の慶応義塾)に学びました。洋書で欧州には岩塩が産出することを知り、明治9(1876)年から、信州の鹿塩で岩塩の採掘を目指しました。これと合わせて、塩泉の塩水を枝条架で濃縮する方法での塩づくりも行いました。岩塩を発掘することはできませんでしたが、塩泉を利用した塩づくりは、小規模ながら明治の末まで行われました。

参考文献:『白い鉱山師』葵 二郎

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