くらしお古今東西
東京都
東京都と塩
東京湾岸では、塩づくりの記録はほとんど見られません。
江戸時代のはじめごろには、行徳塩などの「地廻り塩」による自給自足が目指されましたが、江戸の繁栄に伴いそれだけでは足りなくなり、瀬戸内からの「下り塩」が主となっていきました。江戸は関東の塩の流通の中心であり、江戸に届いた塩はさらに関東平野の各地に運ばれました。
一方、伊豆諸島の複数の島では、江戸時代に年貢として塩を納めていた記録があり、主に海水を直接煮つめる方法での塩づくりが行われていました。三宅島には、戦国期にも塩の「運上」が課せられた記録があり、江戸時代より前から塩がつくられていたようです。
参考文献:『伊豆諸島の塩と生活』坂口一雄
塩にまつわる名産品
江戸時代の焼塩容器「焼塩壷」
江戸時代、現在の東京都心部には数多くの大名屋敷が広がっていました。
1980年代から盛んになった都心部の再開発に伴って、これらの大名屋敷をはじめとする江戸時代の遺跡が考古学的な発掘調査の対象となったことにより、この時代について、これまでとは違った角度からの知見が得られ、新たに多くのことがわかってきました。
焼塩壷に関することもその一つです。焼塩壷は中世後半に出現し、明治時代初めまで作られていた小形の素焼きの土器です。その多くは厚手で蓋を伴い、背の高いコップ形のものと背の低い鉢形のものとがあります。このうちコップ形のものは高さ12㎝ほどで、粘土を成形して焼いた後、中に臼で粉砕した粗塩を入れ、もう一度焼いて「壷焼塩」と呼ばれる焼塩(純度の高いさらさらした塩)を作り、壷ごと流通されていました。また鉢形のものは高さ6㎝ほどで、落雁のように型に入れて乾燥させて焼いた「花焼塩」などと呼ばれる焼塩の容器でした。
これらの壷に入った焼塩は、はじめは公家や上級の武家、寺院の間で贈答品として珍重され、宴席などで用いられるいわば高級品でしたが、江戸時代の後半になると庶民の間にも広がっていきました。
この焼塩壷の特徴の一つとして、刻印があります。コップ形の製品では身の胴部、鉢形の製品では蓋の上面に目立つように刻印が捺されたものがありますが、その大部分は地名や人名、称号、製法等を表す商標で、現在40種類以上の刻印が確認されています。
都心部で出土するコップ形の焼塩壷に見られる代表的な刻印に「泉州麻生」(図1)というものがあり、巨大な市場である江戸に特化した、いわばブランド商品であったと考えられます。
図1「泉州麻生」の刻印をもつ焼塩壷
(東京大学本郷構内遺跡出土資料。東京大学埋蔵文化財調査室所蔵)
一方、「泉州磨生」(図2)「泉川麻玉」(図3)など、似通った文字を使った刻印をもつ製品もあり、こちらは別の業者による紛い物、つまりコピー商品でした。さらに、焼塩壷の胎土や刻印の字形の分析などから、全く同じ「泉州麻生」(図4)を名乗るデッドコピーも存在したことがわかりました。
図2「泉州磨生」の刻印をもつ焼塩壷
(東京大学本郷構内遺跡出土資料。東京大学埋蔵文化財調査室所蔵)
図3「泉州麻玉」の刻印をもつ焼塩壷
(東京大学本郷構内遺跡出土資料。東京大学埋蔵文化財調査室所蔵)
図4「泉州麻生」の刻印をもつ焼塩壷(デッドコピー)
(東京大学本郷構内遺跡出土資料。東京大学埋蔵文化財調査室所蔵)
ブランド品やコピー商品など、きわめて現代的に思われる現象が江戸時代にもあったことが、焼塩壷の研究から見えて来たのです。
江戸時代の塩のごく一部を占める焼塩の容器である焼塩壷については、これ以外にも考古学的な分析だけでなく、史料と対比させることで、それが作られた年代や生産者を特定するなど、多様な研究が行われ、これを通じて当時の人々の営みが鮮やかに蘇ってきています。
小川 望(小平市地域振興部文化スポーツ課 学芸員)
参考文献:『焼塩壷と近世の考古学』小川 望
塩の不足が生んだ「くさや」
「くさや」は伊豆諸島の名産品として有名ですが、その由来には塩の不足が関係しています。江戸時代、伊豆諸島ではつくった塩を幕府へ貢納品していました。そのため、近海の好漁場で獲れる魚類の干物にするための塩は十分に確保できませんでした。
そこで、大きな容器に海水を入れ、開いた魚を浸してから天日に干すという工程を繰り返して魚の塩分濃度を高めるという方法で干物をつくっていました。
そのうちに、魚を浸していた海水(漬け汁)が発酵して、匂いは異様ですが美味な液体になりました。この液に魚を漬け込んでつくった干物が「くさや」です。
参考文献:『漬け物大全 世界の発酵食品探訪記録』小泉武夫
塩にまつわる人物
田中鶴吉
幕臣の息子として江戸に生まれました。幕末に渡米し、サンフランシスコ近くの天日製塩所で働いて塩づくりを学びました。その後帰国し、明治13(1880)年、深川地先で天日塩田を築造しましたが、試験の開始前に暴風雨に襲われて塩田は壊滅してしまいました。明治14(1881)年には小笠原諸島へわたり、小規模な塩田をつくって実験した後、父島で大規模な天日塩田の築造を計画しましたが、実現には至りませんでした。
参考文献:『日本塩業体系 近代(稿)』
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