くらしお古今東西

茨城県と塩

中世には揚浜式塩田による塩づくりが行われるようになり、その様子が室町時代に書かれた御伽草子の「文正草紙」に描かれています。

江戸時代になっても、常陸北部沿岸及び鹿島灘沿岸で揚浜式塩田による塩づくりが行われましたが、瀬戸内や千葉の行徳塩などが流通するようになると、特に鹿島灘沿岸の塩づくりは次第に衰えていきました。なお、江戸時代には入浜式塩田の導入も試みられたことがあります。

常陸北部沿岸を中心とした揚浜式塩田による塩づくりは明治の末まで行われました。

参考文献:『茨城製塩史の研究』梅原 勇

塩づくりの歴史

茨城県における縄文時代~江戸時代の製塩

茨城県では縄文時代晩期の製塩土器出土遺跡が50箇所余り存在する。縄文時代の製塩は、製塩専用の粗製深鉢形土器で、「海藻を焼いてできた灰<藻灰>」を添加した海水を煮沸・煎熬(せんごう)し、褐色の結晶塩を得ていたと考えられている。縄文時代の様相は、本ページ下の「縄文時代の塩づくり(霞ヶ浦周辺と関東平野)」で詳しく紹介されている。

縄文時代以後の弥生時代・古墳時代は、茨城県では、塩生産の実態は不明で、よくわかっていない。ただ、古墳時代以後は、常陸国風土記に「乗濱里東、有浮嶋村、長二千歩廣四百歩、四海絶海、山野交錯、戸一十五烟、里七八町餘、所居百姓、火塩為業、・・・」の記事があることから、霞ヶ浦周辺で塩を生産していた可能性は大きいが、まだ解明されていない。

奈良時代・平安時代になると茨城県北部沿岸部で、塩を生産していたと考えられる。日立市北の台遺跡・下相田遺跡などで、筒形平底土器が多量に出土する。筒形平底土器は粗製の製塩土器で、堅塩(きたし)作成土器と推定できる。堅塩を作るには、原材料である粗塩が必要であるが、粗塩は塩田(砂採鹹(さいかん))・大形煎熬容器(鉄釜など)で作成していた可能性が大きい。堅塩が入った筒形平底土器は、北関東地方内陸部の茨城県・栃木県に、多数搬入されている。

鎌倉時代は塩生産の様相は不明である。おそらく、塩田が存在していたと考えられる。室町時代になると揚浜塩田が出現してくる。ひたちなか市沢田遺跡・長砂渚遺跡や那珂郡東海村村松白根遺跡である。江戸時代以後も揚浜塩田が展開した。ここでは、発掘調査で明らかになった沢田遺跡の様相を詳しく紹介してみよう。

沢田遺跡では、室町時代後半(15世紀)から明治時代末期までの釜屋約110軒と鹹水槽(かんすいそう)約1,300基を確認している。塩田遺構は発掘調査では確認していないが、東接して自然揚浜塩田の存在が確実である。江戸時代後半の様相であるが、釜屋があって、釜屋内の中心部あるいは北寄りには竈がある。その東側の海よりには2基の小形の鹹水槽が、南側には苦汁(にがり)を抜く居出場(いだしば・水槽)が位置している。さらに、釜屋外には東側の海よりに大形の鹹水槽が5~6基ほど南北に並んでいる。そして、大形の鹹水槽と釜屋内の小形の鹹水槽の間を土樋(つちどい)で結んでいる。釜屋内の施設には、竈・竈状遺構、鹹水槽・土坑が含まれる。外は燃料置場、居出場、貯塩場として、あるいは、作業場としての空間と想定される。土樋は釜屋の外側の規模の大きい鹹水槽から、釜屋内に付設された長径2m前後の鹹水槽に接続された「鹹水輸送装置」の役割を果たしていたものと思われる。第8号釜屋は遺存状態がよく、竈は灰や貝殻片を含む黒褐色土等を用いて構築され、焼貝殻粉粘土吊釜(土釜)であった。釜で煎熬し製品にするまでの作業については、「釜で鹹水を煮つめる時には、釜屋内の北側の鹹水槽に南側の鹹水槽の鹹水をろ過して、泥などを取り除いた濃い塩水を溜め、柄杓で汲み上げ何度も釜に入れ、釜の中に結晶した塩が一杯になるまで塩焚を行う。塩焚が終わると、釜の中の結晶した塩を釜柄振※で押し引きして集め、塩のなかに混じっている苦汁を取り出すために、竈の南側に付設されている居出場と呼ばれる水槽の上の籠に入れ、一昼夜置いて苦汁を下垂れさせて水槽に溜める。その後は、苦汁のぬけた塩を叺(かます)に入れ、目方をはかり、俵装した」とする。

茨城県は、縄文時代晩期に土器製塩を開始し、おそらく古墳時代でも土器製塩を行っていた可能性が高い。奈良・平安時代は塩田による塩生産を行っていた可能性があり、生産した塩は北関東地方に供給していた。鎌倉時代は揚浜塩田による塩生産を行っていたと考えられる。室町時代後半になると、揚浜塩田での塩生産の実態が発掘調査によって解明されている。以後、江戸時代は、継続して揚浜塩田による塩生産が行われた。

岩本正二(日本塩業研究会会員)

引用・参考文献:茨城県教育財団編『沢田遺跡』茨城県教育財団文化財調査報告第52集・第77集 財団法人茨城県教育財団 1989年・1992年

引用者注 釜柄振(かまえぶり):結晶した塩をかきよせて集めるための道具

 


縄文時代の塩づくり(霞ヶ浦周辺と関東平野)

一般的に、植物質食料に依存するようになった農耕社会において、食事における塩分の需要が高まり、製塩が始まったと考えられてきた。縄文社会のような狩猟採集民は動物質食料の割合が高く、肉や骨髄に含まれる塩分を摂取していたため、製塩は必要ないと考えられていたのである。

ところが、狩猟採集民である縄文人も製塩をおこなっていたことが明らかにされている。縄文時代後期の終わり頃(約3,500年前)より、現在の霞ヶ浦周辺で土器を用いた製塩がおこなわれるようになった。塩を作るための専用土器(製塩土器)の出現をもって製塩の開始と判断しているが、土器を利用しない方法であれば、もっと古い時期から製塩がおこなわれていたのかもしれない。

製塩土器で、海水など塩分を含む液体を煮詰めると塩の結晶ができるが、素焼きの土器であるため、土器自体の中でも塩が結晶化し、土器が破損してしまう。そのため、製塩をおこなっていた遺跡(製塩遺跡)には、小さくなった土器の破片が大量に堆積している。こうした遺跡は霞ヶ浦の南岸に集中している。

ところが、関東地方において、製塩土器(類似する特徴を持つ土器を含む)は、当時汽水域であった霞ヶ浦沿岸から離れた地域からも発見されている。遠くは、群馬県・栃木県南部から見つかっており、土器自体が塩とともに運ばれたのか、内陸でも土器を模倣して製塩の一部の工程がおこなわれたのか、まだ議論の余地がある。

さて、狩猟採集民である縄文人は、なぜ塩を作ったのだろうか? 土器を使用した製塩の事例は世界的にも珍しいため、直接的な比較はできないが、素朴な製塩法が報告されているニューギニア高地の民族例を参考にしてみよう。ニューギニア島の農耕民は土器を使わず、塩泉に浸した植物や塩分を含む植物を焼いて塩の結晶を作っている。灰と混ざるので、現在流通しているような真っ白い塩ではなく、黒っぽい色をしている。

ニューギニアの製塩法は興味深いが、それよりも、作られた塩の用途が注目される。塩は日常的な調味料ではなく、稀にしか使用されない。魚など食料の保存にも利用されていない。どちらかというと、物々交換のための財として所有されていた。縄文時代の製塩が始まったのは、土偶・耳飾り・石棒などの製作が盛んになる時期である。縄文時代の塩は、海産物の加工・保存に用いられたという説が受け入れられてきたが、塩そのものが交易品のひとつとして生産されたのではないだろうか。現代的視点からでなく、素朴な社会における塩を参考に、縄文時代の塩の用途を考えてみるべきだろう。

川島尚宗(島根大学法文学部山陰研究センター客員研究員)

参考文献:『生産と饗宴からみた縄文時代の社会的複雑化』川島尚宗、『極限の民族』本多勝一

塩づくりの工夫

「海岸崖」の利用

茨城県北部では、塩づくりの工夫として、「海食崖」(高さ20~30メートルの崖が連なった海岸で主に凝灰岩質泥岩からなる)を掘って作った水槽を、塩田でつくったかん水(濃い塩水)を貯蔵するために使っていました。これには、太陽熱による蒸発により塩分濃度を高める効果もあったとされています。

参考文献:『茨城製塩史の研究』

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