くらしお古今東西

高知県と塩

土佐湾沿岸は波が荒く地形的にも向かないため入浜式塩田は築かれず、江戸時代から明治末まで、小規模な揚浜式塩田による塩づくりが行われていました。

塩の道

高知への塩の道

江戸時代、高知県では揚浜式による塩づくりが行われましたが、不足分は瀬戸内の塩が流入していました。仁淀川(によどがわ)流域では、土佐湾有数の商業地である須崎に、撫養(徳島県)や坂出(香川県)の塩が運ばれ、ここから馬で内陸部に運ばれました。また四万十川流域へは、伊予(愛媛県)の塩も運ばれました。一方東部では、徳島から吉野川を遡ってきた塩や詫間(香川県)から陸送された塩、また笹ヶ峰峠を越えてきた伊予の塩が、陸路で南へと運ばれました。

参考文献:『塩の道を探る』富岡儀八

塩にまつわる人物

豪傑江田文四郎と塩

山内一豊の家臣であった江田文四郎は江戸時代初期の豪傑として知られる。こんな話が残されている。後北条氏を攻略するため小田原攻めに参陣していたおり腕をケガした。この時、江田文四郎は腕の傷口が開いた部分に塩を詰めて治したという。この話は「江田文の塩漬け」と地元の人々に語り継がれたといわれる。

さて、この江田文四郎は、関ヶ原の戦い後、山内一豊が土佐に移封されると、仕置役を務めていた辻清兵衛に江田文四郎が政治向きのことで何やかやと批判を繰り返した。辻清兵衛はこのことを聞き捨てならずと、江田文四郎に果し合いを申し出るに至っている。この事件は二人だけの争いにとどまらず藩を二分することになり、高知城の北の河原(鏡川の支流)で決闘に至っている。結局、辻は矢に当たり即死する。一方、江田文四郎は無傷だったが、この一件で土佐藩の分裂を招いたとし割腹を命じられたという。

落合 功(青山学院大学教授)

参考文献:『塩俗問答集 常民文化叢書<3>』渋沢敬三編、『土佐之武士道』安芸喜代香

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