くらしお古今東西

広島県と塩

中世には因島や向島などで塩づくりが行われていたことが記録されています。

江戸時代には、各地で入浜式塩田がつくられ、盛んに塩づくりが行われました。竹原、松永、瀬戸田等の塩田が有名であり、広島県は昭和40年代まで、塩田による塩づくりの中心の一つでした。

塩にまつわる人物

本庄重正

慶長12(1607)年、尾張(愛知県)生まれ。諸国を遍歴し、赤穂(兵庫県)に滞在中に塩業を学びました。福山藩で殖産に尽力した後、万治元(1660)年から7年をかけて松永塩田を造成し、「松永の父」と呼ばれました。延宝4(1676)年に亡くなりましたが、晩年の住居の跡には、本荘神社が建てられています。

参考文献:『大日本塩業全書 第一編』

 

鈴木四郎右衛重仍

賀茂郡(現東広島市ほか)の代官。藩に申請して竹原を干拓して耕地を築きましたが、耕作に適さなかったことから、赤穂から塩づくりに精通した人を招き、慶安3(1650)年に31軒の入浜塩田を築造しました。これが竹原塩田のはじまりです。

参考文献:『大日本塩業全書 第二編』、『塩と碑文』水上 清

 

 

塩づくりの歴史

竹原塩田の開発と地蔵菩薩

竹原塩田は、慶安3(1650)年に古浜が開発され、その2年後の承応元(1652)年に新浜が築造された。当時、98軒浜の塩田であった。明暦2(1656)年に実施した地詰(検地)によれば、面積は約61町歩、製塩量は1,110石余りであった。人間1人当たりの塩の摂取量は1斗といわれているので、約1万1,000名分程度の塩を生産していたことになる。この面積は、広島藩領内で最大の塩田で昭和34(1959)年の第三次塩業整備まで続いた。

実は竹原塩田は、開発当初から塩田として開発したわけではなかった。もともとは田畑の開拓地として築造したのであるが、潮気が強いために作物が育たずそのまま放置されていた土地であったのである。この時、竹原の湊に来航していた赤穂の薪船が「こうした土地は塩浜が適地である」と指摘したのを受け、赤穂から技術者を2名招き、試験的に塩づくりをしたところ、良質な塩が生産できたことから、塩田開発に踏み切ったのである。

この塩田開発に尽力したのが代官である鈴木四郎右衛門であった。もともと鈴木四郎右衛門は竹原下市村に常駐していた蔵奉行だった。蔵奉行とは、周辺地域から集められた年貢米を管理、監督するのが役割であった。

こんな話しが残されている。後阿弥という村人がいた。後阿弥の夢の中に地蔵菩薩が登場した。そして、この地蔵菩薩は、地蔵菩薩と建物が朽ち果てており、「(地蔵のために)御堂を建立し、供養すれば、当所が繁昌するようになる」と告げたのである。後阿弥はこのお告げを鈴木四郎右衛門に伝えたところ、「これは珍しい霊夢である。喜ぶべきことである。尊ぶべきことである」と喜んだ。そして後日、鈴木四郎右衛門は地蔵菩薩のところに詣でて、地蔵菩薩の堂を建立したのである。そののち、鈴木四郎右衛門は蔵奉行の役が解かれ、広島城に戻った時に塩田開発を願い出て、塩田開発の許可を受けると再び代官として竹原下市に戻ってきたのである。竹原の塩は白色で濃厚であり、品質がとても優れていたため、たちまち評判となり、全国各地の商船が寄航し、争って塩を求めたといわれている。以来、竹原の塩は、「塩」としてではなく「竹原」として売られている。

塩田開発直後、広島藩の殿様、浅野光晟が江戸から帰国した途中に竹原に寄って塩田開発の現場を視察している。このとき塩田を絶賛し、代官鈴木四郎右衛門は50石の加増を受けたという。

現在も竹原では地元の守り神として地蔵堂が残されている。

落合 功(青山学院大学経済学部教授)

参考文献:「塩田開発期の竹原-瀬戸の海に輝いた塩の町たけはら-」落合功(『広島県郷土史研究協議会機関誌』第36号(近刊))

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