くらしお古今東西

三重県と塩

三重県における塩づくりは、古代・中世においては、伊勢神宮との関わりの中で発達していったと考えられており、中世には伊勢神宮に塩を貢献していた塩浜がいくつもあったことが記録に残っています。なお伊勢神宮では今日まで、塩づくりの神事「御塩殿祭」が毎年行われています。

伊勢の塩づくりは、鎌倉時代初期までは自然の干潟を利用する原初的な方法でしたが、室町時代には、堤や浜溝を持つ近世の入浜式塩田の先駆ともいえる塩浜が成立しました。その後、明治末まで入浜式の塩田による塩づくりが行われました。

塩にまつわる人物

上地八兵衛

「布取り法」という、枝条架の代わりに布を張り、布面に海水を流下させて蒸発させて濃い塩水をつくるという方法を考案し、明治33(1900)年に現在の松阪市で塩づくりを実施しました。この方法は、三重県、和歌山県の複数の箇所で行われたということです。

参考文献:『日本塩業体系 近代(稿)』

さまざまな塩の使いみち

化粧品をつくるのにも使われた塩

日本の各地には、古来、朱砂(硫化水銀)や水銀が採取されていたとされるところがありますが、伊勢の丹生山(現在の三重県多気郡多気町)もそのひとつです。

朱砂は古くは縄文時代の土偶や古墳時代には古墳の壁画の彩色にも使われましたが、次第に日本では朱砂や水銀の採取は行われなくなり、江戸時代までには、大陸からの輸入品に取って代わられるようになりました。

そんな中で、丹生山の水銀を塩や粘土などと混ぜて焼いてつくる「伊勢おしろい」は、化粧品としてのほか、シラミ取りなどにも使われ、江戸時代を通じて、丹生山の近隣の伊勢の射和(現在の松阪市)の特産品でした。

参考文献:『古代の朱』松田壽男

塩と暮らしを結ぶ運動推進協議会会員

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