くらしお古今東西

宮城県と塩

江戸時代になると、仙台藩に入浜式塩田が導入され各地に塩田が開発されましたが、藩の専売政策により厳重に統制されていました。渡波塩田や野蒜塩田が有名で、渡波塩田では昭和30年代まで塩づくりが行われていました。

参考文献:『企画展 松島湾の塩づくり』奥松島縄文村歴史資料館

塩にまつわる祭事

藻塩焼神事

塩竈市にある鹽竈神社の末社である御釜神社では、毎年7月に「藻塩焼神事(もしおやきしんじ)」が行われており、古来の「藻塩焼き」による塩づくりを今日に伝えています。

塩にまつわる習俗

牛の知恵

仙台市では、塩は牛(ベコ)に塩俵をつけて運んだという。こんな話が残されている。真夏の暑い日に、牛は重い塩俵を運んでいた。重い塩俵に加え、尻を叩いて急がされた。こんなときに川にさしかかった。すると牛は塩俵を背負ったままで川の中に入っていった。そして、牛は座って背中をゆすり、背負っていた塩俵の塩は全て溶けて流れ出てしまったという。こうして何も入っていない塩俵だけが残った。こうした話と似たものは他でもあり、埼玉県小川町にも残されている。

落合 功(青山学院大学経済学部教授)

参考文献:『塩俗問答集 常民文化叢書<3>』渋沢敬三編

塩づくりの歴史

松島湾の塩づくり

松島湾沿岸は縄文時代の貝塚が密集する地域として全国的に有名ですが、多数の製塩土器を出土する遺跡が集中して分布する地域としても知られています。縄文時代晩期から弥生時代中期にかけてと、奈良時代後半から平安時代初頭にかけて、とくに9世紀前半頃の製塩遺跡が多数見つかっています。

縄文時代には国内最大の塩の生産地で、奥羽山脈を越えて遠く山のムラまで運ばれていたことが明らかになっています。保存や味付け用の自家消費だけではなく、海と山を結ぶ重要な交易品でもあったようです。

一方、古代の製塩は陸奥国府が多賀城に置かれた時代のもので、湾内140ヶ所の遺跡で確認されています。この時期は朝廷による蝦夷(えみし)征討の政策が進められていた頃で、陸奥国に派遣された多くの兵士や馬の飼養で増大した塩の需要を賄うために、塩づくりが集中的に行われたものと考えられます。

多賀城跡からは、「所出鹽竈」「急竈木運廿人」と記された木簡が出土しています。これは「塩づくりの竈に使う薪を運ぶための人夫20人を至急派遣してくれ」という請求文書で、多賀城の管理の下で塩の生産が行われていたことを示しています。

松島湾東部に位置する東松島市宮戸島の江ノ浜貝塚では、松島湾沿岸の製塩遺跡群の中でも中核的な施設だったと推定される大規模な製塩の跡が発見されています。役人が着ける腰帯の飾りである石帯(せきたい)や吉凶を占う卜骨(ぼっこつ)などの多賀城との関わりを示す遺物も出土しています。陸奥国府直轄の生産地だった可能性が高く、松島湾沿岸は多賀城に「塩」を供給する一大生産地であったことが知られます。

江ノ浜での塩づくりは入り江全体で行われ、製塩の作業工程によって大小の製塩土器が使い分けられていたことや、海水の濃度を高めて効率良く塩を生産するために、海草を焼き、その灰(藻灰(もばい))を利用していた可能性が高いことも明らかになりました。鹽竈神社の末社・御釜神社では毎年7月に「藻塩焼神事」が行われています。鹽土老翁神(しおつちおじのかみ)が伝えたとされる古式製塩法を儀礼化したもので、古くから塩づくりに海草を利用してきたことがうかがえます。

湾内に堆積した土壌の花粉分析の結果では、塩づくりが盛んだった時期を境に松島湾周辺の植生がナラやブナの林からアカマツの林へと大きく変化したことが明らかになっています。塩づくりの燃料となる薪の調達で背後の木が伐り尽され、痩せ地に適したアカマツ林が広がったものと考えられます。

植生を激変させるほどの国家プロジェクトだった松島湾における塩の生産も、9世紀の後半には終焉を迎えます。朝廷による軍事政策の変化により塩の需要が減ったことに加えて、貞観11(869)年に陸奥国を襲った貞観地震津波も大きく影響したようです。

菅原弘樹(奥松島縄文村歴史資料館館長)

会員からの寄稿

気仙沼地域での製塩の跡

※ 株式会社角星 斉藤嘉一郎氏からの、宮城県の気仙沼地域における塩づくりの歴史についての寄稿です。

塩と暮らしを結ぶ運動推進協議会会員

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