くらしお古今東西
愛媛県
愛媛県と塩
中世には、弓削島(現新居浜市)や岩城島(現越智郡上島町)に「塩浜」があったという記録があります。
江戸時代には、多喜浜(現新居浜市)、波止浜(現今治市)、伯方島(同)などに入浜式塩田が築かれ、盛んに塩づくりが行われました。その後も愛媛県は、昭和30年代まで、塩田による塩づくりの中心の一つでした。
New 瀬戸内塩業人物伝
第4回 天野喜四郎(あまの きしろう)
天野喜四郎は元禄3(1690)年1月5日、備後国御調郡吉和村(みつぎぐんよしわむら、現広島県尾道市吉和町)で誕生しました。吉和浜で塩田経営に従事し、屋号を米屋と言いました。伊予国(現愛媛県)の多喜浜塩田の開発者として名が知られています。また、参考文献にある天野元敬(もとゆき)氏は初代喜四郎から数えて9代目にあたります。
当時の西条藩についてみてみましょう。西条藩では、藩政の一環として新田開発や塩田の築造が積極的に行われました。松平西条藩が成立する以前から自然条件に着目した領主や在地の有力者によって干潟の干拓が行われてきました。
本記事で取り上げる天野喜四郎を中心とした多喜浜地区の塩田開発も重要な事業でした。元禄年間(1688~1704)から幕末にかけて、西条藩の支援を受けながら塩田と新田畑の造成が進められ、伊予最大の塩田地帯が形成されました。これらの事業は地域経済の基盤を築く重要な役割を果たしました。ここからは具体的に塩田開発の流れをみていきましょう。
多喜浜(古浜)の開発
元禄16(1703)年、深尾権太夫が責任者となり、升屋源八・讃岐屋新左衛門・奥村丈助とともに塩浜築立を引き受けます。その後宝永元年(1704)に着工したものの、資金難や災害(宝永4年の大地震・同6年の高潮)などもあって完成に至らず、享保5(1720)年には権太夫が死去し、塩浜築造計画はいったん中断しました。
そんな中、吉和浜(現広島県尾道市)で塩浜を経営していた天野喜四郎に西条藩から事業継続依頼が出されます。喜四郎は享保8年7月、同業者5人と連名で開発請願書を提出し、同年9月9日開発に着手しました。
享保9年には古浜1が完成し、11軒の塩浜は同10年9月、開発者の6人で分担経営することになりました。
東多喜浜の開発
享保17(1732)年には大飢饉が起こり、西条藩にも多大な影響があり、難民が多数出ることとなりました。喜四郎は難民救済事業としての塩田開発を藩に献策し、同18年には25町3反余(17軒)の塩田が完成しました。この事業の難民救済にちなんでこの地を多喜浜と呼ぶようになりました2。喜四郎はこの功績によって西多喜浜庄屋役を命じられたようです。
久貢(くぐ)新田の開発
喜四郎は宝暦6年12月29日(西暦では1757年2月17日)に死去します。彼は塩田地帯を望む久貢山山頂近くに葬られています。子孫は代々喜四郎を名乗り、初代の遺志を継いで塩浜を開拓していきます。久貢新田(多喜浜西分)は2代目によって完成したものです。久貢新田の検地が実施された宝暦13(1763)年、2代目喜四郎は西多喜浜・久貢新田庄屋役を罷免され、垣生(はぶ)村(現新居浜市)庄屋甚左衛門がその後任となりました。これ以降文政6(1823)年まで、天野家主導の塩田開発は休止状態となりました3。
北浜(新浜)の築造
久貢新田(多喜浜西分)に次いで築造されたのが北浜(新浜)でした。文政6(1823)年、4代目によって藩への働きかけがあり、西条藩直営の塩浜として17軒分が造成されました。塩浜の運営には藤田庄三郎と喜四郎が当たり、藩から世話料として毎年銭150目を支給されていたようです。
三喜浜の築造
多喜浜地区の最後の塩田築造は、慶応元(1865)年より造成された三喜浜です。この塩浜は5代目が元請となって、前神寺積善講の講金を資金として築かれました。これは5代目・6代目親子によるものでした。このようにして、幕末までに240町歩(238ヘクタール・2.38平方キロメートル)に及ぶ大塩田地帯が形成されることになりました。このように、初代から6代目にわたる喜四郎は常に開拓の中心人物として活躍しました。
伊予最大の多喜浜塩田のその後は、入浜法を最初に伊予に導入した波止浜塩田と共に昭和34(1959)年の第三次塩業整備で廃止される運びとなりました。
小柳智裕(就実大学経営学部准教授)
注記
- のちの西多喜浜という呼称を経て、多喜浜と改称しました。
- これまでの古浜を西多喜浜、新開地を東多喜浜と呼び、文化元(1804)年に西多喜浜を多喜浜と改称しています。
- 喜四郎が西多喜浜庄屋役に復帰するのは明和4(1767)年のことです。
参考文献
天野元敬編著『多喜浜塩田史』新居浜市文化協会、1965年
愛媛県史編さん委員会編『愛媛県史 近世上』愛媛県、1986年
愛媛県史編さん委員会編『愛媛県史 近世下』愛媛県、1987年
愛媛県史編さん委員会編『愛媛県史 人物』愛媛県、1989年
愛媛県観光スポーツ文化部編『愛媛人物博物館~愛媛ゆかりの偉人たち~』愛媛県生涯学習センター、2022年
これまでの連載はこちら
第1回 野﨑武左衛門(のざき ぶざえもん)(岡山県のページ)
第2回 久米栄左衛門(くめ えいざえもん)(香川県のページ)
第3回 吉井半三郎(よしい はんざぶろう)(広島県のページ)
塩づくりの歴史
カシキの塩田生活
塩田で働く労働者のことを浜子と呼ぶ。塩作りは棟梁を筆頭に6~7名程度の浜子の共同作業によって行なわれた。浜子は年齢や経験により序列があった。塩田によって名称は異なるが、大工(棟梁)の下にジョウバンコ、ハナエ、カシキなどがあった。一番最初に浜子になると見習いとしてカシキとなった。年齢でいえば15歳程度のときである。カシキは「炊」と書き、主な仕事は食事の用意をすることだった。戦前のころのカシキの様子について、生名島(越智郡上島町)の塩田を例に紹介しよう。
浜子は浜子小屋で寝泊まりをする。朝起きるのは4時である。カシキは大工を始めとした他の浜子と共に、まず塩田に出る。浜子たちは全員で地場に撒かれてある砂をマンガを利用して掻く。これを手びきと呼ぶ。これにより砂を均一化し、濃い塩水(鹹水)を効率よく吸水させる。よって、塩田での作業は引く方法が決められていた。この手びきが40分程度で一段落すると、浜子全員20分ほど休憩する。その後、5時頃から6時20分にかけて沼井堀などの作業が行なわれる。この作業が終わると、浜子たちは自由時間となり休憩する。しかしカシキは、休むことなくすぐに水汲みをし、朝食の準備に取り掛かる。水汲みは、1斗5升のハナエタゴを使い、風呂のために2荷、使い水として親方(大工)の家に1荷、浜子小屋に1荷を運ぶ。井戸は家の近くにあるとは限らず、80mも離れていることもあった。この水汲みは見習いカシキ、カシキ、ハナエが分担して運ぶが、見習いカシキやハナエが不在の場合、カシキ1人でやらなければならなかった。
朝食が終わるのは7時30分ごろで、そのあと12時まで休憩である。しかし、カシキは11時頃から昼食の準備を始める。昼食がすむとしばらく休憩し、13時30分ごろから他の浜子たちと塩田での作業を行なう。まずは、ヘリイレ(塩田の周囲の溝や沼井のヘリにたまった砂を塩田の地場に戻す作業)、そして、早朝に行なわれるのと同様な手びきである。その後、少し休憩して、土振り(沼井の周囲に盛られた土を塩田に振り撒いて戻す)、潮汲み(濃い塩水(鹹水)をとるために沼井に敷き詰めた砂に潮水をかける作業)が行なわれた。こうして塩田の一日の作業は終わる。カシキはただちに夕食の準備に取り掛かり、夜8時30分ごろには食事ができるようにした。浜子は、作業が重労働であり、一升食べると言われた。それだけの量を用意するのがカシキであった。食事がすむと、カシキの一日は終わりである。
落合 功(青山学院大学経済学部教授)
参考文献:「西瀬戸島嶼巡航記」野本寛一(『民俗文化 第10号』近畿大学民俗学研究所)
塩にまつわる人物
長谷部九兵衛
松山藩内に塩田をつくろうと、安芸(広島県)に渡り竹原塩田で働いて塩づくりを学びました。その後松山藩に戻り、天和3(1683)年に波止浜湾に塩田を築きました。これが波止浜塩田のはじまりです。
参考文献:『大日本塩業全書 第三編』、『塩と碑文』水上 清
会員からの寄稿
※ NPO法人弓削の荘 理事長・村上知貴氏からの、愛媛県越智郡上島町弓削島における塩づくりの歴史や現在の取り組みについての寄稿です。

