くらしお古今東西

京都府と塩

現在の京都府のうち、旧丹後国の地域では、明治末まで、揚浜式の塩田においてわずかに塩づくりが行われていました。またフィクションの世界ですが、中世の「御伽草子」の山椒大夫が塩づくりを行っていたとされているのも丹後でした。

塩の道

都への塩の道

京都は古来都の所在地であり人口も多かったことから、塩をはじめ諸国の物資が集まりました。中世には、北陸や瀬戸内から塩が流入しました。北陸方面の塩は琵琶湖の水運を利用して運ばれ、また瀬戸内の塩は、淀川を遡り、山崎の津や淀の津で陸揚げされました。

近世には、大阪や伏見経由で、赤穂塩、島塩(小豆島)、灘塩(上灘目。現在の兵庫県姫路市など)が主に流入しました。二十数軒の塩問屋が指導的地位にあって、塩の小売人や直接需要者への販売を司っていたといいます。

参考文献:『日本塩業史』、『塩の道を探る』富岡儀八

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