3.百年戦争と塩税

塩税の導入に踏み出したフランス王が、フィリップ六世(在位1328-1350)だった。カペー朝の断絶を受けたヴァロワ朝の始祖だが、普通に考えれば新税や増税は遠慮する。まだ地位が安泰でないからで、実をいえば王位を争う対抗馬までいた。イングランド王エドワード三世がそれで、両者の争いは全面戦争に発展する。歴史にいう「百年戦争」である。この戦いが、また劣勢だった。北西部ブルターニュ半島の大半をイングランド方のモンフォール伯に押さえられ、1340年にはオランダ沖のスロイスの海戦でも、イングランド海軍に敗北した。制海権を敵に奪われ、フィリップ六世はフランス北岸の海路を使えなくなった。

一大事だというのは、塩が入らなくなったからである。フランス、ことにパリを中心とする王家の本拠地では、西部ポワトゥー地方、サントンジュ地方の塩田で作られる塩が重宝されてきた。それはブルターニュ沿岸を経由し、フランス北岸で陸揚げされるものだった。その海路が止まって、塩が品薄になったのだ。これは困る。王も困るが、増して民人が困る。だから、フィリップ六世は動けた。塩を確保するため、その供給を安定させるためと称して、1341年3月に「王国において見出しうるかぎりの塩を押さえ、塩倉を建てて、適切な給金で雇われた役人に、そこでの管理を委ねるものとする」と勅命したのだ。塩は王の独占となり、当然ながら税が上乗せされるので、値段も上がった。が、さもなくば塩商人が買い占めて、馬鹿みたいに高騰させるだけなので、庶民も納得するしかなかった。

戦争のほうは、1346年のクレシーの戦いも大敗、フランス王の劣勢は続いた。ヴァロワ朝の二代目、ジャン二世(1350-1364)はその逆転に燃えた。まずは戦費を手に入れんと、開いたのが三部会だった。聖職者代表、貴族代表、平民代表の三部でなる議会は、カペー朝末のフィリップ四世(1285-1314)が、専ら課税に協賛させる目的で設立したものだ。1355年12月、ジャン二世はラングドイル(北フランス)三部会を招集して、3万人の兵士を1年間雇うための課税を認めさせた。このとき他の課税と一緒に、1リーヴルあたり3ドゥニエ、つまりは3.3%の税率で、塩税も徴収されることになった。フィリップ六世がすでに塩倉を設置していたため、戦費を賄うという場合も見逃されなかったのだ。

いや、まだまだ足りないと、ジャン二世は三部会と再交渉、結局塩税は取りやめ、そのかわり他の消費税が増額になったが、さておき、あげくに迎えた1356年9月のポワティエの戦いが、またしてもの敗戦だった。それもジャン二世自ら捕虜に取られる大敗だった。フランスは大混乱に陥る。この危機に王国を舵取りしたのが、王の長子で、摂政に就任した王太子シャルルだった。何をするにもやはり金だが、この点シャルルは恵まれていたといえば皮肉か。他でもない、王が捕虜に取られていたからだ。捕虜は身代金の支払いで解放される習慣だったが、そのための課税は正統な権利として広く認められていたのだ。

1358年5月のラングドイル三部会は、前回に続いて塩税を承認した。「五分の一税」と呼ばれたように、税率20%の重税だった。これが今度こそ本当に、しかも効率的に徴集された。王太子シャルルは祖父王が設立した塩倉を、新たに「ボンヌヴィル」と呼ばれた国王直属都市ごと置いたのだ。それらは地域の中核都市、消費経済の中心地でもあったので、塩の売買を管理するにも、値段に上乗せして税金を取るにも、好都合だった。もちろん役人を常駐させて、やはり塩倉と訳されるより、塩税署とされるべき体になる。

塩税は1359年にはラングドック(南フランス)にも拡大された。王太子シャルルは身代金支払いが終わっても、父王が解放されても、その崩御で自らがフランス王シャルル五世(1364-1380)になっても、途切れず取り続けた。減額はありながら、身代金のため、王国の防衛のため、戦争のためと口実を変えることで、とうとう常設の税にした。王が「税金の父」といわれる所以だが、名君は戦争のほうも、ほぼ全てのイングランド軍を追放し勝利した。安堵感から1380年、崩御の直前に塩税含め全ての課税を廃止したが、いったん潤沢となった予算が簡単に手放されるわけがない。シャルル六世(1380-1422)時代、それも早々の1383年には再建されて、もう塩税はフランスの地から消えてなくなることはなかった。

佐藤賢一(作家)

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