英語のサラリー(salary)はラテン語のサラーリウム(salarium)に由来する。そしてこの salarium の語源は sal すなわち「塩」である。このことに疑いの余地はまったくない。しかしここから一挙に「古代ローマでは兵士に塩が給与として支給された」と話がとぶと、これはちょっと違う。なるほどラテン語は古代ローマの言語であるが、この文章からはあたかも例えばユリウス・カエサル(シーザー)が、自分の配下の兵士たちに塩を配っているかのような誤解を生じさせてしまう。そんなことは起こりはしなかった。

salarium は軍務ないし役人の、それもかなりの職責のある者に支給された。ただしそれは現金である。一方ことばには「塩」がついている(正確にいえば salarium は形容詞「塩の」の中性形が名詞になっている)。これをどう考えるか。

実はローマ人にとってももはや真相は分からなくなっていたようである。だいたいひとくちに古代ローマというけれど、かれらの建国伝説は紀元前753年に遡るいっぽうで salarium という単語の初出はせいぜい紀元「後」1世紀であって、それ以前のことは分からない(ちなみにカエサルは紀元前1世紀の人間である)。もちろん初出以前にすでにこの単語はできていたかもしれない。しかしかなりの史料が残っている紀元前1世紀には、いちども salarium は使われていない。

話はここからさらにややこしくなる。外国で出版されたラテン語辞書や語源辞典の一部には「まずは国家から兵士に支給される塩を指し、続いて生活のための金銭、現物支給を伴う給料になった」と書いてある。たしかにことばというものは意味内容を変えていく。この辞書は19世紀末にドイツで刊行され、フランスで刊行された語源辞典のほうは1900年をまたいでいる。しかしその説の根拠は両者ともどもに示されていない。だからなぜそういう記述がなされたかが分からない。そのいっぽう塩の支給にはいっさい触れずに、「塩を買うための給与」をもともとの意味にあげている辞書や事典もある。こちらのほうには現代語からの推測であると、根拠を明示しているものもある。つまりかつての日本になぞらえれば、職人さんに「煙草代」としてチップを渡したようなものである。さらに慎重に、安全策というべきか、いっさい「昔のこと」は記していない辞書もある。それが今日の主流となったと私は判断した。ことばの成り立ちが言語学的考察に留まらず過去の人間の習俗に及ぶ場合には、よほどの証拠がないと確実なことはいえない。

紀元後1世紀に『博物誌』を書いたプリニウスが、塩の重要性を記しているところに(31巻89節)

塩は軍事の栄誉にも関係する。このことより、また古人たちの大きな権威にもとづき、サラーリウムという語がある。

とある(実はこの部分のラテン語記述は、どこで文を切るかも曖昧で、読み方も一通りではない)。どうやらこれが「兵士に塩が(ないしは塩を買うための金が)支給された」という推測の材料を提供し、当初はあくまで推測であったものが、やがて使い回されているうちに「通説」となりやがて「俗説」にまで昇格したのではなかろうか。

塩は人間にとってきわめて重要である。よってサラーリウムという名前が生まれた事情を塩の重要性と結びつける推量は妥当であるし、きわめて自然なことである。しかし実際に塩があてがわれたかどうかはもはや闇の中である。

ところで(一部の?)兵士が遠征前に、あるいは年末に、なんらかの現金をもらっていたことは、すでに紀元前の文献から確認できる。ただしそれは salarium とは呼ばれていなかった。この種の話はすっきりしないが、誤解を避けようとするならば、すっきりしないということをそのまま受け入れるしかないだろう。

逸身喜一郎(東京大学名誉教授)

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