6.フランス革命による廃止、ナポレオンによる復活

1789年のフランス革命は、直接には王家の財政破綻に起因する。再建するには税収を増やすことだが、残されているのは直接税タイユを免除されてきた特権身分、つまりは聖職者と貴族に課税することだけだ。そう発表すると、特権身分は反発した。どうしてもというなら全国三部会を開いて、そこで決議しろと返した。全国三部会とは聖職者を第一身分、貴族を第二身分、平民を第三身分として、それぞれの代表議員が集う議会のことだ。もう170年から開かれていなかったが、フランス王ルイ十六世は召集を決めた。その全国三部会が5月に開幕すると、活発なのが第三身分の動きだった。平民こそは聖職者や貴族以上に不満を溜めていた。税金を払わされるだけ払わされて、なんの発言権も与えられてこなかったと憤りながら、今こそ政治の主導権を握ろうとした。これが革命に発展したのだ。

国の全てが作りなおされることになった。懸案の財政にせよ、向後は王家の都合でなく、国民の利益のために運営されると、その原理から転換させられた。とはいえ、国家に金が要ることは同じだ。税金の実際は、絶対王政から意外なほど変わらなかった。9月25日に身分が撤廃されたのだから、もう免税特権もないとして、直接税は聖職者や貴族からもきっちり徴集された。ついぞ王家が果たせなかった公平な課税を、革命が実現したわけだ。土台が身分に関係なかったのだから、なおのこと間接税は変わらない──かと思いきや、こちらはひどく憎まれていた。例の徴税請負のせいで、もはや行政というより商売の体であり、取り立てが苛酷だったからだ。

世人の怒りは、革命のさなか、徴税請負人、徴税請負頭取の多くが断頭台に送られたことからも窺える。徴税請負の制度も、1790年3月22日に廃止された。さらに早い14日に廃止されたのが、間接税のなかでも最も憎まれた塩税=ガベルだった。地域で税率が異なり、免税地方などもあったため、フランスでは塩の密輸密売が横行していたが、その科で収監されていた囚人たちなど、1789年の夏、つまりは革命勃発一番に釈放された。一刻も早くなきものにしたいと、それほどガベルの廃止は待たれたのだ。

エードや関税など、他の間接税も1790年5月にかけて、次から次と廃止された。が、国家に金が要るのは同じなのだ。名前だけ変えた代替税が、すぐさま設けられて、やはり絶対王政と変わりなくなった。ガベルについても、実は廃止直後に代替税が試みられた。が、ガベルだけは駄目だと、あまりに反発が大きくて、塩税はそのまま廃止となった。

とはいえ、そもそも塩税は、しごく優れた税である。少なくとも為政者は見逃せない。フランス革命の動乱で台頭した軍人、ナポレオン・ボナパルトは1799年に第一執政に就任して政権を掌握、そのまま1804年にフランス皇帝ナポレオン一世になった。王政でなく帝政だが、フランスに君主政が復活した。その皇帝が諸国を向こうに回した大戦争で知られた男なのだ。戦費が足りない。いくら税金を集めても足りないというので、1806年4月24日、とうとう塩税の復活となった。ガベルの呼称は使われなかったが、その復活に変わりはない。庶民は舌打ちしたろうが、天下の独裁者が望んだことであれば、阻むことなどできなかった。

とはいえ、この塩税は絶対王政のガベルのように不公平な税ではなかった。税率は全国一律で、ブルターニュのような免税地方もなくなっていた。徴税請負に委ねられるでもなく、ここに来て公平で公正な塩税も、ようやく完成したわけだ。ナポレオン下、間接税収入は直接税収入の1.5倍額に上ったが、その2億4千万リーヴルのうち、塩税は4千5百万リーヴルまでを占めたというから、なるほど手控えるわけにはいかなかったはずだ。

1848年に二月革命が起きたとき、その第二共和政暫定政府は4月15日の法令で塩税の廃止を決めた。やはり庶民には不人気であり、その廃止は新体制の人気取りということだ。が、実際に手放せるかといえば簡単でない。4月15日の法令は施行される前、12月28日の法令で取り消された。塩税は、その後の第二帝政、第三共和政でも続いた。最終的に廃止されたのが第二次大戦の直後、フランス共和国臨時政府における1945年12月31日の決定だった。占領ドイツ軍に対するレジスタンス運動に功あって、共産党、社会党の影響力が強くなっていたためで、今度こそ庶民のために廃止となった。つい先頃、ほんの20世紀半ばの話だ。

佐藤賢一(作家)

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