5.絶対王政期の塩税、コルベールによる統一包括徴税請負

フランス絶対王政の税というなら、徴税請負の制度に触れないわけにはいかない。それは役人の財務行政に不都合が多かったことで生まれた。簡単にいえば、税金を集めるのには時間と手間がかかる。ところが、王は今すぐ金が欲しいのだ。だから役人では不都合と苦るのは、国の中央銀行がなかった時代の悲喜劇だが、現実に困るものは困る。そこで採られたのが、まず予定の税額を前払いできる者、かつまた後日その分を自分で納税者から回収する者に、すっかり任せてしまう方法、すなわち徴税請負だった。税金を取る王の権利を、切り売りしていたともいえる。事実、徴税請負の契約は、しばしば競売にかけられた。わけても間接税であり、直接税に近い場合もあったとはいえ、塩税も例外でなかった。というより、なかでも時間と手間がかかる塩税こそ、典型的な徴税請負の的だったのだ。

それは16世紀初頭には、もう確認される。最初は村単位、町単位と小規模で、期間も1年と短かったが、この徴税請負がフランス全土で一般化するにつれ、地域単位、地方単位で数年というふうに、規模も大きく、期間も長くなっていった。無数の徴税請負人たちが、まちまちに契約するのでは、事務が煩瑣になるというので、その運用は徐々に統合されたのだ。1578年には大ガベルの包括徴税請負(フェルム・ジェネラル)が始まった。大ガベル地域の塩税を一括して前払いするというものだ。規模が規模だけに、ひとりの徴税請負人では引き受けられない。16世紀末には「塩税大組合(グラン・パルティ)」という金融家団体が、その集団保証において名目人に落札させる形ができた。フランス王アンリ四世の宰相、シュリー公爵の改革だが、それは財政再建の妙手でもあった。直接税は取りにくい。間接税で増収する。が、それも普通は簡単でない。税率を上げにくいからで、生活必需品の塩なら、なおさらだ。ところが、それも徴税請負の措置をとれば、王家は前払いで予定の金額を手にできるのだ。あとは商才に長けた連中が、うまく取ってくれるというのだ。

王国の財務は半ば民営化されたとも形容できる。実際のところ、塩税署は密輸の取り締まり、不正訴えの処理といった法務を専らとするようになる。いや、それでは規律も秩序も損なわれると、17世紀半ばには官営にすることも試みられたが、入金の遅れが改まるわけでなく、また民営に戻されただけだった。「太陽王」と呼ばれたルイ十四世の財務担当、ジャン・バティスト・コルベールの下では、さらなる徴税請負の統合が進められた。大ガベルの包括徴税請負は前で触れたが、1658年、これに五大通関税やエード=消費税といった他の間接税までが合わされた。かたわら、1663年には葡萄酒の消費税とその他諸々の間接税も統合、1664年には別に包括徴税請負が組まれた。小ガベル地域だが、やはり徴税請負が一般化し、規模も地方単位に拡大、期間はプロヴァンスやドーフィネで3年、リヨネで8年と長短ありながら、一体に5年と、やはり長期で運用されるようになっていた。これをコルベールは1667年、リヨネ、ドーフィネ、プロヴァンスでなるひとつ、ラングドック、ルシヨン、セルダーニュでなるもうひとつと、二大ブロックに統合した。これら前段の仕事を土台に1668年、いよいよ6年の期限で組まれたのが統一包括徴税請負(フェルム・ウニ)、すなわち大ガベル、五大通関税、消費税、その他諸々の間接税、そして小ガベルまでを統合し、ほぼ全ての間接税の前払いを行わせる契約だった。金融家=徴税請負頭取(フェルミエ・ジェネラル)たちの組合が、集団の信用において保証する巨大な徴税請負が、ここに成立したのである。

統一包括徴税請負は、1672年のオランダ戦争のときに一度三分化されたが、それも1680年から再建が試みられ、1681年には対象の間接税を拡大して復活した。以後も紆余曲折ありながら、徴税請負はフランス革命まで続けられる。徴税請負頭取らも特権身分と化していく。前払い分を優に取り戻す荒稼ぎをしたからだが、そういうからには税の取り立ては役人が行う以上に過酷だった。塩税はといえば、他の諸税と包括で請け負われ、巨大事業の一部門にすぎなくなった。それなのに他の税より目につくので、最たる悪税として、特権身分ばかりが益する悪政の象徴として、ひどく憎まれることになったのである。

佐藤賢一(作家)

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