インドネシア、塩と鯨と椰子の物語(第1回)
第1回 ラマレラ村の伝統捕鯨と塩
インドネシアのバリ島より東に連なる小スンダ列島が今シリーズの舞台である。インドネシア共和国34州のうちの1州である東ヌサトゥンガラ州はフローレス海とインド洋に挟まれた大小556島の島々からなる。この島嶼地域の塩はもちろん海からの恵みでつくられる。
インドネシア共和国・東ヌサトゥンガラ州(赤枠)
『クジラと生きる』中公新書 掲載図を加工
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今シリーズの時代背景は20世紀末から21世紀初め、スハルト大統領独裁体制から民主化へ政治が大きく移行することにより、社会・文化の流れも大きく変化した頃の話である。最初の物語はクジラである。
ここで紹介するラマレラ村は東ヌサトゥンガラ州レンバタ島南海岸に位置する捕鯨民の村である。浜からは遠く沖を回遊するマッコウクジラの姿を確認できる。男たちは全長10mの「プレダン」と称する伝統木造帆船を用いて、手投げ銛(離島銛)でマッコウクジラやイトマキエイなどを捕獲し、それを媒介として山の民と農作物を物々交換する経済システムが構築されている。
伝統的木造帆船 プレダンでマッコウクジラを追う
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クジラはラマレラの人々にとっての自家消費の食糧ではない。捕獲されたクジラはすぐに解体して加工肉にされ、女性たちの手により山へ運ばれ主食となるトウモロコシやバナナなどの農作物と物々交換される。
クジラ肉の加工。その日のうちに日干し(塩をまぶす)すると、一週間位で日干し肉になる。
脂身から滴り落ちる油は、灯油として使われる。
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この地の捕鯨は生存捕鯨として認められ、クジラ肉を媒介とした山の民との共生関係は400年の歴史を持つ。伝承によれば、ラマレラ村の人々は16世紀にスラウェシ島南部からマルク諸島を経由し、エイやサメ、ウミガメなどを手投げ銛で捕獲しながらこの地にたどり着き、マッコウクジラと遭遇して定住することを決めた。レンバタ島南岸を回遊するマッコウクジラを捕獲する技術を考えだし、400年以上もの間、同じ技術でクジラを捕獲し続けている。
彼らが捕獲するマッコウクジラは年間平均20頭である。生死をかけて捕獲するマッコウクジラはラマレラ語で「コテクラマ」と呼称し、他の獲物とは異なって捕獲にはさまざまなタブーがあり、漁法をはじめ部位の分配も捕鯨慣習法に則り厳密に定められ、捕獲に関与したすべての者に何らかの分配がある。たとえば、船を海に出し入れすることしか手伝えない老人などにも配られ、さらには、海からの収獲が期待できない寡婦なども、解体時に手づくりパンやタバコを海岸に持参し、クジラ肉と交換することで肉を分け与えて貰う配慮もなされている。捨てる部位のないクジラは、余すことなく利用され、その巨体は村中にくまなくいきわたっていく。
クジラは貨幣と同等の価値をもつため、長期の保存が必要となる。その保存方法に塩は不可欠である。また、同時に山の民との交換物としても塩は重要である。
ラマレラ村の人々がこの地に移り住む前に、先住民である内陸部の人々も塩をつくっていたようだ。現在、最も原始的な方法で塩をつくる人々は内陸部に住む一部の山の民である。海水を天日蒸発させ採集するという方法であり、あくまでも自家消費用である。
一方でラマレラの塩はクジラ肉同様に島内域での交換物として、女性たちの手により内陸部の村へ運ばれる。山の民はラマレラの女性たちを介して貴重な塩を手に入れているのである。
次回はラマレラ村での女性の暮らしの中で、塩がどのような役割を果たしているのか、自然の中で生きる人々の塩の役割について話をしよう。
江上幹幸(えがみともこ)(元沖縄国際大学教授)
参考文献:小島曠太郎・江上幹幸『クジラと生きる』中公新書 1999年、小島曠太郎・えがみともこ『クジラがとれた日』ポプラ社 2001年