第4回 インカの塩田(ペルー共和国)

13世紀から16世紀にかけて繁栄したインカ帝国は、ペルーのクスコが首都だった。クスコはケチュア語でインカのヘソを意味して、国民から宇宙の中心とまで言わせた都市。当時の面影を残すインカ道を歩いていると、谷を埋めつくすたくさんの塩田が現れた。

標高3,000mの山中から、塩分を含んだ地下水が流れている場所がある。この塩水をうまく利用して急斜面の谷に作られたのが、プレ・インカ時代からケチュア族の人々に塩を供給してきたマラスの塩田である。塩分濃度の違いで、塩田の色が赤から白のグラデーションに変わり、パッチワークのような眺めに驚いた。一片の隙間もなく飽和状態に作られた塩田を見ていると、ジャガイモとトウモロコシを主食とする人々の、塩に対する熱い想いと敬いを感じた。人は塩なくしては生きられない、ということか。

2坪ほどの小さな塩田が谷の斜面を埋めつくす。5cmの深さに塩水を張り、3日毎に、減った分の塩水を塩田に足していく。1か月で塩が採れるのでシーズン中は5回収穫できる。

 

山の中腹から流れ出る塩水。

 

塩分濃度約13%の地下水が、50cm程の穴から流れ出して、10cm前後の狭い水路に阿弥陀状に枝分かれしていく。すべての塩田にまんべんなく塩水が行き渡るように工夫されているのは、マチュピチュなどの遺跡でよく見られる精巧な水路技術が、インカの末裔たちにも受け継がれているからである。

塩田の仕事は乾期と農閑期が重なる5月から9月までの間つづく。マラス村の人々は自分たちの塩田をそれぞれ3~5枚所有していて、塩田1枚につき約2,000円の税金を納めるという。

底に沈殿した塩を集める。塩田の底は粘土で固めているので集めた塩は粘土が混じって少し赤茶色をしている。

 

水面に浮かぶ塩の結晶。塩の結晶は最初蒸発の速い水面にできて、重くなって沈み塩田の底に溜まっていく。

 

撮影に訪れた2002年5月は、エルニーニョ現象の影響で毎日にわか雨が降り塩田作業は進んでいなかった。おかげで最初にする作業を見ることができた。作業は塩田の床(底)の整地から始まる。雨で流れ込んだゴミや小石を取り除き、塩田の底を刃物で水平に削り、水漏れ防止のために粘土で突き固める。これはかつて日本の塩田でも行われた作業と同じ方法である。

塩の集獲作業。厚い板で干上がった塩田の底をたたいて、堆積した塩を粉末状にして取り出す。

 

塩田の入口にある塩の集積所で、ゴミを取り除きながら塩を袋詰めにするマラス村の人々。

 

海から遠いアンデスの食生活では、ヨードが不足しがちで、甲状腺機能障害を起こしやすい。このため現在は、塩にヨードを添加することが義務付けられており、ヨードを加えた塩以外は販売できない※。

インカ時代からマラス産の塩と甲状腺障害の因果関係が知られていたらしい。地元では紫トウモロコシの煮汁チチャモラーダを飲みつづけると良いと言われている。

ペルーに来ていつも思うことがある。それは、1533年スペインのフランシスコ・ピサロがインカ帝国を征服した後、わずか500年足らずで、高度に発達していた文明が消えて謎になってしまったことだ。コンキスタドールと呼ばれる新大陸にやってきた征服者たちの振る舞いが、ただ貴金属と領土拡大目当てだったのか、それ以外にどんな目的があったのか考えてしまう。

クスコ郊外にあるチェンチェイロ村の市場でマラスの塩が売られていた。この村では物々交換が一般的だった。

片平 孝(写真家)

(塩と暮らしを結ぶ運動推進協議会事務局より)

海藻をよく食べる日本人の食生活ではヨードが不足することはありません。このため日本では逆に、塩へのヨードの添加は認められていません。


これまでの連載はこちら
第1回 ウユニ塩湖(ボリビア共和国)
第2回 アタカマ砂漠の岩塩(チリ共和国)
第3回 シパキラ岩塩協会(コロンビア共和国)

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