サハラ砂漠の南側、今日のマリ共和国の地には中世のころからガーナ王国、マリ帝国、ソンガイ帝国などのイスラーム王国が栄えた。王国の繁栄を支えたのは豊富な金であった。金の生産地はセネガル川上流やニジェール川上流で、金は植物の根のように成長すると考えられ、川底や地中から採掘された。マリ帝国のマンサー・ムーサー王(14世紀)がメッカへの旅の途中、金をばらまいたため、金価格が暴落したとのエピソードは、やがてヨーロッパに黒人王国の「黄金伝説」を生み出すことになる。

黄金を手にするマンサー・ムーサー王とアラブ商人
(出典:私市正年『サハラが結ぶ南北交流』山川出版社・2004年、表紙)

 

王国は経済的にいくら栄えても、決定的な物を欠いていた。「塩」である。「金」はなくても生きていけるが、塩は人間の生存に欠かせない食料である。黒人王国の地の北側には、世界最大の砂漠であるサハラ砂漠が広がり、岩塩が採掘された。9世紀ころから、黒人のガーナ王国の金とサハラ砂漠の塩が大規模に交換される、塩金交易が始まった。塩と金を「ひとこぶラクダ」の背に乗せて運んだのはアラブ人の商人たちであった。

ガーナの王たちは、塩の所有者たちによる塩金交易の支配を避けるため、金価格が暴落しないように価格を統制していたが、塩の所有者が優位に立っていた。11世紀の史料(ガルナーティー)によれば、ガーナ王国では、塩の重さ1に対して、金の重さ1の等量交換されるのが通常であったが、時には、塩1に対し、金が2か、それ以上で交換された。このことからも、塩の重要性とともに、塩が金より優位に立っていたことがわかる。

しかし塩が貴重であれば、密売業者が現れるのは当然であった。14世紀の歴史家ウマリーは「中部スーダン(西アフリカの黒人の土地)では塩が不足していた。そこで塩を密かに運び、それを金と交換する者がいた。」と伝える。他方でガーナ王国では、塩については国内に運び込まれるときと、運び出されるときの2度、課税されたが、これは取り締まりを強化するためであろう。

これだけ高価な塩でも生産地では、塩尽くしのような景観も出現した。「タガーザーの町では、市壁は塩で作られ、家の屋根、柱もすべて塩で作られている。ドアも塩板で作られていたが、壊れないように四方の端を皮革で補強していた。」(カズウィーニー)。塩は、他の鉱物と同じように地表の下、2尋(ひろ)(約3.16メートル)、あるいはもっと深い地中にあり、石のように塊として切り出された。塩は食料にされただけでなく、塩板として建築資材にも使われたのである。真偽のほどはわからないが、動物が死ぬと死体を砂漠の中に放置すると、それはやがて塩になる、とも記述されている。また金よりも高価であった塩は、塊を割って貨幣としても使われたようである。

今日でもサハラ砂漠では、タウダニ(マリ北部)で採掘された塩板やきのこ型の塩壺を運ぶ、ラクダの長い隊列を見ることができる。

塩を運ぶラクダの隊列(サハラ砂漠)
(出典:Novaresio, Paolo and Gianni Guadalupi, The Sahara Desert : From the Pyramids of Egypt to the Mountains of Morocco, Cairo, The American University in Cairo Press, N.D.)

 

私市正年(上智大学名誉教授)

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