塩とイタリアの食文化
1985年、大寒波の年、初めてイタリアに留学してカルチャーショックを受けたのが、パスタを茹でる時に湯に放る塩の量だった。ドボンと音がするほど投げ入れる。イタリアでは、塩が身体に悪いという議論はあまり聞かない。イタリア語の塩はsale、サーレ。給与はsalario、サラリオで、古代ローマのある時期、塩の配給用に上乗せされた一種のボーナスを指す言葉に由来し、これがサラリーの語源となった(※)。聖書でも、キリストが弟子たちに地上の塩となれと唱えるように、塩は腐敗から万物を守り、味つけまでしてくれるありがたい存在である。
世界的に知られるイタリアの伝統食品の数々も、塩の恩恵によって生まれたといって過言ではない。たとえば魚醤。古代ローマには、魚の内蔵もいっしょに発酵させる臭みの強いガルムという魚醤が生産され、ジビエなどの調味料として珍重されていた。しかし、ガルムは歴史から消え、起源は定かでないが、800年ほど前から南部に細々と残るコラトゥーラという魚醤文化がある。イワシの頭や内蔵をとって塩漬けにする魚醤で自家消費用に作られていたが、チェターラという漁村を中心に最近は加工業者も増えている。そのパスタは、まるで日本へ帰ってきたような懐かしい風味だった。
アマルフィ海岸の小さな漁村チェターラのイワシの魚醤、コラトゥーラ
塩が腐敗を防ぐことに気づき、干肉を作り始めたのは、古代ローマ以前のエトルスク人だというが、サラミを指すイタリア語salame、サラーメも塩漬けという意味。中世の頃、北部で豚のひき肉、ラード、酒類、ハーブ、そして塩を混ぜ、腸詰めにする技術が発達した。
それ以上に塩が底力を発揮するのは、パルマやサン・ダニエーレの名産、生ハムである。塩と豚のもも肉しか使わない発酵食品で、それだけに大切なのは、熟練した職人による塩入れの技術だという。表面に適切な量の塩を擦り込むことで肉から水分が出て乾燥が早まり、腐敗ではなく、発酵へ導かれる。寝かせだけで、得も言えない風味を醸す。
また、シチリア島、サルデーニャ島、トスカーナ州の南部などでは、マグロやボラの卵をプレスして塩蔵するカラスミ作りも見られる。南部の夏の風物詩、赤いジュータンを敷き詰めたようなドライトマトの天日干しでも、塩は大活躍だ。半分に切った縦長のトマトに、塩を摘んでは投げ入れる。すると水分が早く抜けて、いいあんばいに仕上がる。
トスカーナ州オルベテッロの漁協によるボラのカラスミ作り(ボッタルガ)
何年前だろう。シチリアのトラーパニの塩田を訪れた。日差しが強く、風が吹きわたるこの地域では、古代から良質の海塩が作られてきた。かつては、日本へも大量に輸出されていた。塩田は、987ヘクタールの自然保護区にあり、希少な水鳥も飛来する。そこで約350ヘクタールの広大な塩田を所有するダリ氏は当時82才、色よく日焼けし、筋肉質で、頭もしゃきっとしていた。2013年に94才でこの世を去ったその主人に健康の秘訣を問うと、彼は、塩の山を指差しながら、こう即答した。「質のよい塩だよ」。
シチリア島のトラーパニの塩田にて
島村菜津(ノンフィクション作家)