血と塩

何やら物騒な題名でもうしわけなく、また無粋にも感じられるかもしれないが、塩について書け、というお題から想起したのは、血と塩という主題である。

塩っ気を人間はどこから学ぶのか。もちろんそれは料理からであるかもしれない。が、子供の頃、手に傷を作ってしまいおもわずそれを口にもっていったとき、鉄分とまざった塩の味がはっきりと記憶に刻みつけられる経験は誰にでもあるのではないか。血をしゃぶる。普通はしないことだけれど、しょっぱいという、塩っ気の記憶の奥底には、そうした誰にでもある経験が息づいてはいないだろうか。

このコラムの数号前に書かれていた雑賀恵子さんの『エコ・ロゴス』(人文書院)に触発され、拙著の『食べることの哲学』(世界思想社)で御著作を引用させてもらったことがある。それは食人=カニバルとそのタブーを巡るものであるが、同じことは動物を食べることにも拡張可能なことである。動物は殺さずには食べれない。だからその過程で人間はいくつもの葛藤やタブーを抱えることになる。

この方向でいえば、塩というのはそもそも岩塩や海水からとってくるから、こうした食のタブー性にはかかわらないと一般的にいえる。だが、そうだろうか。確かに自分の傷の血を慌てて口で押さえるという場面は、塩味を感じるためのものではない。だが考えようによれば、それは希薄だが究極のカニバル(自分を食べる)の原型のようなものである。

実際に、血を使った料理についても聞いたことがある。同僚の社会学の教員がミュンヘンにはじめていったとき、レストランのメニューをみてもよくわからないので何か適当にたのんだら、血の煮こごりのソーセージがでてきてまいったとのことである。ブラッドソーセージ(ドイツやイギリスには結構あるようだ)というこの種の食品の起源は結構古く、紀元前に遡るようだが、血がそれ自身として塩を補給する素材でもあるということは少し面白い。

これも雑賀さんが数号前に書かれていたことだが、人間の血の塩分濃度は、脊椎動物が海から陸に上がった当時の太古の海の塩分濃度とほぼ同じだといわれる。海の水で満たされていた身体を維持するためには、それ相応の塩分濃度は必要なわけである。料理に塩味を効かせるとき、それが無機物たる塩からのものであれ、太古の海のなかにいた自己とその同類を「食べる」カニバル的な記憶が影をおとしているということはないだろうか。子供の頃の傷の味のしょっぱさが、忘れがたい幼少の記憶として残っているように。

檜垣立哉(大阪大学大学院教授)

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