結節点に在る塩

「誰かと樽一杯の塩を食べた」というポーランドの諺がある。パンと塩を分かち合いながら共に苦難を凌ぐ年月の長さをあらわして、友情の深さをいうらしい。削いで、削いで、最後に残るものはパンという乏しい生活にあっても、塩は欠かすことのできない貴重なものだった。友愛と誠実さは、塩で固められる。

江戸時代の飢饉の際、餓えた人びとはあらゆるものを喰らった。山に逃げ込み、木の実、山菜や野草、根っこまで口に入れられるものはなんでも食べたものもいる。栄養価は高くないもののそれなりに腹はくちくなった。それでも、命を落とす。植物とりわけ山菜はカリウム値が高く、塩がないために電解質バランスが崩れたのだ。飢饉で亡くなったものには、餓死ではなく塩不足によるものも相当いたといわれる。そういえば、自らの体験をもとに太平洋戦争のレイテ戦で餓えに苦しみながらジャングルを壊走する日本兵を描いた大岡昇平の『野火』では、ひりつくような塩に対する渇望も描かれていた。

わたしたちの生命をつなぐ食べ物は、すべて生きものからなりたっている。おそらく、生きものの身体を経由しない食べものは、水と塩だけだろう。

農耕を始めてから、わたしたち人間は、植物を安定してたくさん食べることが可能になった。しかしながら、植物には塩(ナトリウム)はほとんど含まれず、逆にカリウムが多い。半透膜である細胞内外のナトリウム/カリウムイオンの電位差を利用して物質を摂取・排泄したり、ナトリウムイオンの電気エネルギーを用いたりして生体機能を維持している生きものにとって、カリウムとのバランスをとるために適度な塩は必要不可欠だ。農耕によって得られた植物を食物とするには、塩が重要になってくるのである。

ただ塩で結んだおにぎり。茹でたてのパスタに、オリーブオイルと塩。きゅうりやトマトに塩。ただそれだけの味付けが、いかに美味いことか。そのものの甘味を膨らませるほどに、そのもののうちにもつ旨みを引き出すほどに。塩は、植物と食物をつなぐ結節点なのだ。

動物を飼育し、安定して肉を得る牧畜にもまた塩は重要であった。植物に依存する羊などの動物は、やはりカリウム過剰になるので塩を求める。塩袋をかざしながら、ひとは草食動物を操り、飼い慣らしていったのである。そして、腐敗しやすい肉を長く手元に留めておくためにも、塩は大きな役割を果たした。また塩は、肉を熟成させ、アミノ酸の味を際立たせ、脂に輪郭をもった味を与え、肉を噛みしめる悦びをもたらす。こうして、動物を食物にする繋ぎ目にも、塩は在ることになる。

わたしたちが生きていくために、生きている植物や動物を、無機物の塩を介在させて食物とする。塩の交換や交易で、分かち合いで、ひととひとを繋ぐ。

つまりは、他者と他者の境界線のあわいに、それらが触れ合おうとするときに、塩は確固として在る。

死と再生の結節点に。

生命体、言い換えれば有機体としてのひとの体液とほぼ等張になる生理食塩水濃度は、約0.9w/v%。現在の海の塩分濃度よりもはるかに低い。地球上に生物が生まれでた太古の海の濃度にあったものらしい。故郷の海の記憶を、ひとは身体の奥底に潜めている。情動が震えるとき、涙が流れる。淡く柔らかい塩の味が、舌を慰める。このとき、わたしたちは、身体から滲み出た始原たる故郷の海の記憶に抱きしめられているのだ。

雑賀恵子(評論家)

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