嗜好品化する塩

塩が手に入りにくい土地で暮らしている人々がいる。たとえばアフリカはコンゴ盆地の東部イトゥリの森に住むピグミーの人々だ。

そんな人々の暮らしの研究のために何か月も一緒に生活して日本に帰国した文化人類学者の友人がこんな話をしてくれた。

「そんなとき、小料理屋で食べる塩味の効いた焼き物や煮物が、悶絶するほどおいしく感じられるんです」

ここでの塩は一種「嗜好品のような資質」を露わにしているのではないか。

ふつう「嗜好品」というと、酒・たばこ・コーヒー・紅茶などが思い出される。これらに共通するのは、

「栄養摂取を目的とせず、香味や刺激を得るための飲食物」(『広辞苑』)

といった資質だろう。その点で、適量の摂取が生存に不可欠な塩を「嗜好品」と呼ぶと誤解を招く可能性がある。

と述べたところで、現代の豊かな消費社会での飲食物の扱われ方を見てみよう。すると、こんな物言いが、ごく普通に行なわれていることに気づかされる。

「寿司はコシヒカリに限る」「いや、やっぱり粘り気の少ないササニシキだろう」

もとより米のご飯は、生存を支えるエネルギー源として必要不可欠な食品だった。が、ついカロリー摂取が過剰になりがちな豊かな社会では敬遠される場合も少なくない。

とすれば、ありえない話だが「おいしくてカロリーがゼロの寿司米」が実在すれば、とくに若い女性などには大歓迎されるに違いない。こう考えてみると、ここでの「米」は「嗜好品としての資質」をはらんでいると言えないだろうか。

それは、米だけの話ではない。「カロリーのない甘味料」「味で選別されるミネラルウォーター」「暑さ寒さから身を守るよりもデザインの善し悪しで選ばれる衣服」など、現代社会では多くの品物が「嗜好品化」しつつある。

そこで「塩」だ。かつては塩と言えば「専売の塩」のほかにはありえなかった。が、自由化を契機に「味と風味の良さ」を売り物にする各種の商品が流通するようになった。塩もまた「嗜好品化」の道を辿り始めたということだろう。

塩が必需品であることは今も変わらぬ事実である。が、現代という時代には「塩と暮らし」の関わり方に「嗜好品」としての可能性がはらまれ始めていることも忘れてはならないように思う。

髙田公理(武庫川女子大学名誉教授)

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