塩が足りないと? 最終回 塩が多すぎると
「塩が足りないと?」をテーマとしてきたこの連載も今回で最終回となる。今回はあえて、テーマとは真逆の「塩が多すぎると」どうなるかについて紹介してみることとしたい。
1945年8月に広島と長崎に投下された原子爆弾は今日までに約50万人の被爆者に死をもたらした。その原子爆弾は約2週間前の7月16日、米軍の巡洋艦インディアナポリス号(以下「インディ」と略)によって南洋諸島で最大の空港のあったテニアン島に届けられた。
その後インディは、グアム島を経て単独でレイテ島に向かう。と、7月30日深夜、日本海軍の潜水艦から発射された3発の魚雷が右舷に命中。その直後に時差発射された魚雷が右舷の穴に入り込み、奥で爆発した。で、インディは12分後に転覆、沈没する。
結果、乗員1,199人のうち約300人が即死。残り約900人はバルサ材にキャンバスを張った救命筏などで海に浮かびながら8月2日の哨戒機による発見を待つほかなかった。が、水も食糧も欠乏し、海上での体温低下がもたらす幻覚症状、気力の消耗などで乗組員の多くが死亡した。さらにサメの襲撃、その心理的圧迫のために命を落とす者が続出した。
それだけではない。塩分を含む海水に長時間さらされていると皮膚がふやけて海水腫瘍という赤い腫れ物が出来る。それは次第に大きくなり、体中を覆いつくし、体毛が残らず溶かされ、脈拍が増加し、口で息をするようになり、体温が低下し、昏睡一歩手前になる。
そんな体の異常と飢餓による苛立ちが人間を異常行動に走らせる。ある集団は幻聴や妄想に悩まされて「ジャップが俺を殺そうとしている」とわめいて殺し合いを始めたりした。
やがて脱水症状の若者が精神の混乱から海水を飲み始め、言葉にならない歓喜の声を上げ始めた。が、海水は人体が安全に摂取できる二倍の塩分を含んでいる。で、人体の細胞は、それを飲んだことで血中に放出される過剰なナトリウムを低下させようと試みる。が、結果は無駄に終わり、高ナトリウム血症という深刻な全身症状に襲われる。
と、鼻に泡が生じ、唇の色が青く変わり、呼吸が不規則になり、脳内では神経細胞が機能不全や機能停止に陥る。唯一の有効な対策は大量の真水で体液を中和させることだ。が、そこに真水などありえない。で、彼らの多くが2時間で死を迎えることになった。結局、最終的に生存者は316人を数えるのみとなった。
いうまでもなく塩は人間の生存に不可欠である。が、『論語』が伝える孔子の言葉どおり、塩もまた「過ぎたるは猶及ばざるが如し」――似たことを英語では「Too much is as bad as too little.(多過ぎるのは少な過ぎるのと同じくらい悪い)」と表現するのだそうだ。
つまり塩は、摂り過ぎが良くないばかりか、周辺に多すぎても障害をもたらす。生理と味覚に貢献する適量の塩の驚くほど偉大な効用を考えると不思議だという気がしきりにする。
高田公理(武庫川女子大学名誉教授)
参考文献:ダグ・スタントン・著、平賀秀明・訳、2003『巡洋艦インディアナポリス号の惨劇』朝日新聞社