生命と塩 第5回 生命力の源ATPとナトリウムイオン

どんなポンプでも動かすには動力が必要です。前回「考える力の源 ナトリウムイオン」で紹介したNa+/K+ポンプもそうで、この場合はATP(アデノシン三リン酸)という物質が動力源としてエネルギー供給をしてくれます(ATP自身は加水分解されます)。ATPは脳でも筋肉でもどこでも、人間でも草花でもすべての生物にエネルギーを供給してくれます。このことが「世界中どこでも通用する米ドル$」に似ているので、ATPは「生体エネルギー通貨」とも呼ばれます。このありがたいATP、一般細胞では約30%がNa+/K+ポンプに使われ、神経細胞では約70%にも達します。

消費されたATPはどうやって作られるのでしょう。ATP合成酵素というものがあります。これは水力発電所を想像すると分かりやすいです。ダムを築いて貯水し、それを落水して水車を回し、ひいては発電機を回します。細胞において水力発電所に相当するのは「ミトコンドリア」です。ミトコンドリアって、名前は聞いたことあるけど、よく分からないかもしれません。人間などの動物や植物、菌類・藻類の細胞の中にあるミニ細胞みたいなものです(専門的には細胞小器官といいます)。人間だと1細胞に数百個のミトコンドリアがあり、体重の約10%がミトコンドリアです。

ミトコンドリアが水力発電所だとしたら、ダムに相当するのはミトコンドリアの「内膜」です。ミトコンドリアには外膜と内膜があり、それらの間に水素イオン(H+)が貯水ならぬ“貯水素イオン”されています。このH+が内膜の内側に流入するのが水力発電における貯水-落水に相当し、発電機に相当するのがATP合成酵素。H+が流入しつつATP合成酵素を回してATPを作ります。本当にくるくると水車発電機のように回転するのです。ATP合成酵素が回転することを解明したのが、前回の終わりに触れた“たった3年でノーベル賞”(1997年ノーベル化学賞)を受賞したジョン・ウォーカーと(16年後の受賞になった)ポール・ボイヤーでした。

生物界にはモーターや車輪のように回転する構造はありませんが、2つだけ例外があります。ひとつは大腸菌などの細菌やメタン菌などの古細菌(細菌と古細菌をまとめて原核生物)の「鞭毛」の根元にある分子モーターです。ミドリムシや精子などの鞭毛は鞭を打つようにくねくね動く一方、細菌の鞭毛は根元にくるくる回転する分子モーターがあって、それがワインのコルク抜きのように鞭毛をくるくる回しているのです。そして、もうひとつの分子モーターがATP合成酵素。鞭毛の分子モーターもATP合成酵素の分子モーターも、どちらも水素イオンH+の流れが駆動力源で、もしかしたら同じ起源かもしれないという仮説もあります。

さて、ここからが本題です。水素イオンH+の多さ・少なさを表すのが水素イオン指数pH(ピーエイチ、ペーハー)ですよね。酸っぱいレモンのpHは2くらいですが、製造工程でアルカリ性の水酸化ナトリウムを使う蒟蒻(こんにゃく)はpH 12のアルカリ食品。pHの数字が小さいほど水素イオンH+が多いので、pH 2のレモンはH+がいっぱいです。一方、pHが大きいほどH+は少ないので、pH 12の蒟蒻は低カロリーでH+も少ないといえます。

そして、自然界のアルカリ環境、つまり、H+が少ない環境としては、たとえばアルカリ塩湖があります。その代表格は東アフリカの大地溝帯にあるナトロン湖(タンザニア)。文字通り「ナトロン」すなわち炭酸ナトリウムを産するアルカリ塩湖で、pHは12以上の強アルカリ、湖水中のH+はふつうの淡水湖の10万分の1くらいかしかありません。ところが、こんなにH+が少ない環境でも、ここに生息している生きものはなんとか“貯水素イオン”しATP合成しているのです。でも、これは僕の愚考なのですが、ナトロン湖にはたくさんのNa+があるので、H+の代わりにNa+を使ってATP合成する生きものもいるのではないかと思います。

実はいるのです、Na+を使ってATP合成する生きものが。それらはアルカリ環境にいるのかというと、そうでもないのが不思議なところです。まだほんの数種でしかNa+駆動型のATP合成酵素は確認されていませんが、いずれも嫌気性(*)の細菌で、海底の泥とか歯垢とか、およそアルカリ環境とは思えないところから採れました。そして、まだほんの数種での話ですが、「もしかしたらATP合成酵素はNa+駆動型のほうが先にできて、後から派生したH+駆動型が現在は主流になっているのではないか」という仮説もちょっとだけいわれています。いずれにせよ、ATP合成酵素という生命力発生源の起源にNa+が関わっていると想像したら、お塩への畏敬の念がさらに増しました。

長沼 毅(広島大学大学院統合生命科学研究科教授)

注:酸素がなくても生きられること、あるいは、酸素があると生きられない性質を嫌気性といいます。対語は「好気性」、英語でエアロビックaerobicといい、有酸素運動のエアロビクスと同じですね。

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