生命と塩 第4回 考える力の源 ナトリウムイオン

「人間」は生物学の標準和名で「ヒト」といい、学名は「ホモ・サピエンス」Homo sapiensで「賢い人」という意味です。その賢さの元は「思考」であり、思考を司る器官は「脳」です。脳は主にグリア細胞と神経細胞(ニューロン)からなります。ここでは、グリア細胞については触れず、神経細胞とお塩(塩化ナトリウムNaCl)のナトリウムイオンNa+の関係について述べようと思います。

ヒトの脳には860億個の神経細胞があります。ひとつの神経細胞には1,000以上の「樹状突起」があり1,000以上の他の神経細胞につながって情報を受け取ります。そして、ひとつの神経細胞には1本の長い突起(軸索)もあり、その末端から出る樹状突起が他の神経細胞につながって情報を送ります。ひとつの神経細胞は1,000以上の入力と1つの出力をもった「ノード」といえるかもしれません。神経細胞と神経細胞のつながりは「シナプス」といい、脳全体で100兆ものシナプスがあります。脳は860億の神経細胞と100兆のシナプスで情報伝達と情報処理を行っているのです。

情報伝達と情報処理、というとコンピューターを思い出すかもしれません。コンピューターにおける「情報」とは一連の「信号」であり、信号とは「0と1」のデジタル信号で、具体的には「電圧」です。電圧がある値より低いと0、高いと1として、0か1か(低電圧か高電圧か)の信号を次々に送るのが情報伝達です。ただし高電圧といってもせいぜい5ボルトくらいですので、ご安心を。電圧以外に電流や周波数なども信号として使えますが、コンピューターでは電圧を信号として使うことが多いです。そして、神経細胞もまた電圧(0.1ボルトくらい)を信号として使っています。

神経細胞の電圧とは何でしょうか。それは神経細胞の細胞膜に発生する電圧のことです。神経細胞に限らず、細胞は内側にマイナスイオンが多く外側にプラスイオンが多いので、細胞膜の内側は電位が低く外側は電位が高くなっています。つまり、細胞膜の内外に電位差があって、これを「膜電位」といいます(電気工学では電位差のことを電圧と呼びます)。

ところで、細胞内に多いマイナスイオンとは塩化物イオン(Cl-)かと思いきや、Cl-は細胞膜の内外を自由に出入りしやすいので膜電位の形成に貢献していません。むしろ、Na+が細胞外に多いことのほうが重要です。なんとNa+を細胞外に汲み出す「ナトリウムポンプ」という酵素があるのです。正確には「Na+/K+ポンプ」といって、細胞内にカリウムイオンK+を汲み入れつつ、細胞外にNa+を汲み出すポンプが細胞膜に埋め込まれています。2個のK+を入れて3個のNa+を出すので、プラスイオン1個分の電位が細胞外に付加されて膜電位の形成に貢献します。Na+は細胞膜を自由には出入りできません、入るには「Na+チャネル」という特殊な通路が開口する必要があります。このNa+チャネルの開口こそが神経細胞の電気信号の元、ひいては脳で「考える」ことの源なのです。

何かの刺激を受けると(たとえば他の神経細胞から電気信号を受けると)神経細胞の膜電位が変化します。すると、それがきっかけになってNa+チャネルが開口し、Na+が細胞内に流入して膜電位がさらに変化します。すると、それがきっかけになって(同じ神経細胞における)隣のNa+チャネルが開口し、また隣の… というように、膜電位の変化が隣へ隣へと伝わっていくのです。ただし、両隣に伝わるのではなく、前へ前へと伝わります。ここでは詳しく述べませんが、後ろには伝わらない(信号が逆流しない)仕組みがあるからです。

このようにヒトが脳で考えることにはナトリウムイオン(Na+/K+ポンプとNa+チャネル)が関わっていることを分かって頂けたでしょうか。Na+/K+ポンプはデンマークの化学者イェンス・スコウが1957年に発見し、1997年にノーベル化学賞を受賞しました(Na+チャネルはまだノーベル賞の対象になっていません)。実は、この時は3名が受賞し、イェンス・スコウは発見から40年後の受賞でしたが、1名はたった3年後の受賞でした(もう1名は16年後)。そのたった3年で受賞した研究については次回に取り上げます、お楽しみに。

長沼 毅(広島大学大学院統合生命科学研究科教授)

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